美術の授業の、今回の課題は水彩画だった。下書きを終えたシエルは、筆洗を持って立った。美術室の端の水道台へ水を汲みに行くついで、離れたアンジュの席に寄ってみた。彼女の絵を覗き込むと、まだ半分も下書きが出来上がっていないようだった。誰かがアップライトピアノを弾いている絵だ。誰なのか、そこがどこなのか、まだ分からなかった。
「素敵だね。でも、テーマを無視するつもり?」
 シエルが問うと、アンジュはシエルの方を見上げて首を傾げた。
「テーマって、なんのこと。」
「今回の課題、縛りのテーマは“星”だよ。どうせ聞き過ごしたんだろう。」
 言われてアンジュは、隣に座るクラスメートのポムに、シエルの言っていることが本当かどうか聞いた。彼女は頷いた。笑っている。
「どうして教えてくれなかったの。」
 アンジュがポムに詰め寄ると、彼女は更に可笑しそうにした。
「だって、まだ半分も下書きが仕上がってないのに、テーマが抜けてるだとか、気付けるのシエルだけよ。」
「先生があれほど念を押してたのに、それを聞き過ごしても平気だなんて。つくづく思い込みの激しい女の子だね、アンジュは。」
 シエルの軽口に、アンジュは不機嫌になって黙り込んだ。ポムは笑いながらも、一応アンジュをかばう側に立った。
「そんなこと言って。アンジュは時々おっとりしているだけよ。」
 どうだか。シエルは口笛を吹きながらアンジュの席を離れて、水を汲みにいく。
 
 それから後、仕返しのつもりなのか、アンジュは美術の授業中、立ち歩くついでの度にシエルの席に寄って、その絵を冷やかしたけれど、シエルの絵が仕上がるにつれ、冷やかすのは止めて、ただ惹かれるままに立ち寄って、何も言わずに眺めた。アンジュにただ眺められるばかりなのは、どうにもくすぐったくて嫌だな。小さな高揚感は、つもりつもって、シエルの色使いをじわじわと支配した。
 
 シエルが、できた、と呟いたときも、側にアンジュが立っていた。長く息を吐いて体を弛緩させるシエルの横で、アンジュも感嘆の息を漏らした。
「素敵ね。」
 クラスメートが、立ち替わりシエルの完成作品を見にやってきては、それを褒めそやした。僅か滲み合いながら漂う、パステルカラーのグリーン、ピンク、ブルーと、レモンイエロー。画面中に散らばる無数の真白い星。小さい星も大きい星も、輝きの強さは同じだ。
 
 二人で並んで下校する道すがら、アンジュがなおもしつこく課題の絵を褒めてくるので、シエルは思わず不満を打ち明けた。
「失敗作さ。あれじゃあとても夜空には見えない。」
「まさか。見えるわよ。むしろ、夜空以外の何に見えるって言うの。あんなに星が浮かんでいるのに。変なシエル。」
 シエルはアンジュを見た。アンジュは不思議そうにシエルを見ていた。坂を下るアンジュの顔を、柔らかい黒の葉陰と夕日色の木漏れ日が、ゆるゆると流れていた。シエルは、この色ならば、と思った。今度は感じたままを完全に再現できる自信がある。
 シエルは答えた。
「もっと暗い色使いで描くつもりだった。それなのに出来上がってみたら、どうしてだか、真昼より明るく仕上がってる。思い通りにいかなかったから、悔しいんだ。」
 アンジュはちょっとの間考えてから、次からシエルの絵を覗きにいくのは止すわ、と言った。シエルは、呆気にとられて返事が遅れた。
「……どうして。」
「真昼より明るく仕上がったの、それ、私のせいでしょう」
「……。」
 シエルは突然早足になって、さっさと暗闇坂(夏場、正午の日差しのきついときなどに、両脇に鬱蒼と茂る木々の影に覆われて、道が真っ黒になることが名前の由来)を下りきった。慌ててアンジュは後を追った。
 シエルは、坂を下っても歩く速度を緩めずに、そのままアンジュの使うバス停を通り過ぎた。二人が一緒に下校するときには、急いでいない限りシエルはアンジュがバスに乗るのを見送るのが常だった。シエルの家は、バス停をこえて更に少し歩いた先にあった。
「見当はずれなら、そうと言ってくれればいいだけでしょう。怒るなんてないわ」
 アンジュはバス停で立ち止まると、離れていくシエルの後ろ姿に文句をぶつけた。立ち止まって振り向いたシエルの表情は尖っていた。
「見当はずれじゃないさ。」
「……それならどうして見送ってくれないの。」
「だから見送りたくないんじゃないか。君って、これだから嫌なんだ。気遣いが足りてないよ」
 シエルは素っ気なく帰っていった。アンジュは、シエルの言ったことについて頭を悩ませた。気遣いが足りてないですって。あなたが仕上がりに満足いっていないとしたらそれは私のせいだと謝って、それでどうして気遣いが足らないっていうの?
 
   ***
 
 アンジュは、眠る前に、ベッドで本を読むのが習慣だったけれど、今夜は気分が乗らない。諦めて本を閉じて、ベッド脇の読書灯も消した。部屋が闇に包まれる。そのうちに、闇の中から、アンジュのお気に入りが、順に浮かび上がってくる。本棚の緩やかな猫足。壁に飾ってある、小さなキルト絵の楕円の輪郭。閉まったカーテンの、ミモザの透かし模様。アンジュは、ベッドを離れて窓に寄ると、カーテンを開けた。部屋に濃い銀色が満ちた。それは、月明かりでなくて、ただの外灯の明かりだ。それでも、窓から夜空の月をしつこく見つめ続ければ、その煮詰めたような銀色は、やはり月明かりのような気もしてくるのだ。今夜は満月だった。アンジュは、ほう、と息をつく。と、部屋にノックが響いた。エクレールがシエルからの電話を告げる。アンジュは階下の居間へ降りて受話器を取った。変質したシエルの声が流れてくる。
『さっきは、ごめん。絵が思うように描けなかったから、苛々してたんだ。八つ当たりだ。』
「ふうん……。わかった。もういいわ。」
 安堵の空気が、受話器を通して互いに伝わった。
『君があまり細かいことを気にしないのはよく知ってるのに、悪かったよ、あんな言い方をして。』
「それって、謝ってるの?」
『そうだよ。どうして。』
 シエルの顔が見えなくて、からかわれているのかそうじゃないのか、よく分からない。けれど、直接顔を見てもう一度謝ってほしいと求めるほど、大げさな話でもない。
 翌日の休みに、アンジュは思い立ってポムを訪ねた。ポムは学寮暮らしだ。校舎と隣り合わせに建つ、真新しい寮だった。アンジュは午後のお茶の時刻に、エクレール手製のオレンジピール入りパウンドケーキを持って、寮のガーネット色の玄関をくぐった。建物は外装内装とも、クリーム色ベースにガーネットが挿し色になっている。
 ポムは、アンジュを快く自室に迎え入れたものの、アンジュのシエルに関する愚痴には、笑うばかりでまともに取り合ってくれなかった。
「酷いわ。」むくれるアンジュ。
「そんなことないわ。だって、シエルのときも、こうしているの。公平よ。」
「まあ……。」
 それでもお茶会を終える頃には、アンジュの心はすっきりと晴れていた。アンジュは、ポムの本棚から気になった本を数冊抜き取ると、それを借りて帰路についた。
 
   ***
 
 いつも通り、授業内で“星”の水彩画の課題を終えることが出来なかったアンジュは、放課後居残りなどして、その絵をどうにか仕上げたらしい。いつの間にか、美術室の表に展示されている完成作品の列の一番最後に、アンジュの絵が加わっていた。ピアノの連弾の絵。一台のアップライトピアノを、二人で一つの椅子に腰掛けて弾いている。二人とも、あやふやに描かれていて、男の子のようにも、女の子のようにも見える。星の王子様の居そうな、一つの丸い星の上に、ピアノも椅子の二人も収まっているが、これではどう見ても、星よりピアノがテーマだ。
 連弾譜を探していると言っていた、あれは、やっぱり言い訳ってだけじゃなかったのか。シエルは、内心もやもやする。アンジュは僕を誘わないし、一体誰と連弾をしようっていうんだろう。
 勿論、アンジュはシエルと連弾するつもりでいたのだ。アンジュがシエルの席までやってきて、これに決めたから一緒に弾いて、と、ラヴェルのマ・メール・ロワの連弾譜をシエルの机の上に置いてみせたとき、シエルはちょっと気が抜けて、小さく溜め息をついた。
「何よ、その顔。私、本当に連弾譜を探していたんだから。」
 実際には、アンジュの絵の演奏者の片方が自分であったことに安堵して吐いた溜め息だったけれど、アンジュの勘違いに便乗して、シエルは言った。
「自分で言い訳だって言っていたんじゃないか。はあ、女の子って簡単に噓を本当にしちゃうんだもんな。」
 アンジュは呆気にとられて言った。
「シエル、あなただって女の子なのに。」
 
 ちなみに、シエルの“星”の絵は、外部のコンクールで受賞したため、その後しばらく玄関ホールの壁に展示されることになった。でも、そんな自分の絵よりも、すっかりアンジュの絵の方を気に入ったシエルだった。アンジュは早々に展示期間を終えた自分の絵を、不思議に思いながらもシエルにあげた。おかしなシエル。でもそんなに気に入ったならどうぞ。私、要らないから。
「……要らないって酷いだろう、これ、連弾してるの、僕たちじゃないの。」
「だって私たち、もう現実に連弾しているのに、絵なんか要らないわよ。上手に描けているのなら別だけど。」
 アンジュがそう言うので、シエルは気兼ねなくその絵を引き取った。その絵を眺める度、マ・メール・ロワが聴こえてくる。自分の弾く第一ピアノの旋律と、それに絡まるアンジュのたどたどしい第二ピアノの旋律が。