毎年初秋の頃に、家族で、北陸のとある老舗旅館へ出向いて一泊する。こじんまりとしたその宿も、其処の辺りの土地柄も、地味だが地味なりの趣があった。母の好みである。

 

 夕飯を済ませて大浴場を出た時点で時計を見たら、まだ七時を回っていなかった。浴場で十二分にくつろぎ、家族に置いてきぼりにされた灯夜(とうや)は、湯上がりに一人、旅館自慢の日本庭園を散歩して火照りを冷ましてから、部屋に戻った。

 両親と兄と来ていた。隣り合った二人部屋を二部屋押さえてある。どちらを覗いても誰もいなかった。父と母は別棟のバーにいるだろう。兄は、両親と一緒に飲んでいるのかもしれないし、据え置きの電話を借りて、交際相手の彼女の家にかけているかもしれない。灯夜は、旅館一階にある焼き物の売店が、絵付け体験コーナーを設けているのを思い出した。手頃な値段だったはずだ。彼女への土産に丁度良いと思って、絵付け講座を受けているだろうか。

 兄の都馬(とうま)は大学生で、贅沢な土産を買える身分ではない。それでも今回は、本当ならばある程度値が張る土産を買って帰った方が良いのではと灯夜は思う。兄が、彼女の誘いを断ってこの家族旅行を優先させたのを、灯夜は察していた。しかし、彼女への土産について、タイミングも測らず気軽に彼に進言できる立場でもない。兄とは、七も歳が離れていた。

 灯夜は、軽く表を散策することに決め、書き置きをすると、着替えて旅館を出た。緩やかな風が心地いい。過ごしやすい夜だった。灯夜は気の向くままにどこまでも足を伸ばした。

 

 気が付けば、観光名所である古くからの茶屋街の周辺まで来ている。既に一時間も歩いていた。そろそろ引き返さなくては。しかし灯夜は立ち竦むばかりで動けない。頭の中で問答がした。

何故引き返さなくてはならない?

家族が宿で待っている。

本当に待っているのか?

帰らなければ心配をかける。

何故?

家族なのだ、心配をかけるに決まっている。

家族?……お前の帰りを待っている家族というのは、此れのことか。

 ふと灯夜は、目の前を行く三人連れの後ろ姿に気付いた。遠いし暗くてよく見えないが、それでも、あまりによく見知った後ろ姿にしか思われない。彼らは、茶屋街の端、目立たぬ路地から街の中へと消えていった。微風に乗って、彼らの談笑の残響が、耳に届いた、灯夜はそんな気がした。

 灯夜は、彼らの影を追って、ふらりと街の中へ足を踏み入れた。

 茶屋街に足を踏み入れて灯夜はすぐ我に返った。三人連れの人影など、どこにも見あたらない。夜の茶屋街を訪れたかった自身が都合良く見た幻影だったに違いなかった。こういうことはままあった。

 灯夜は改めて辺りを見回し、尻込みをした。まだ店仕舞いには早いはずの時間に、ほとんどの店が仕舞っている。この街は、景観と共に時の流れも昔のままのようだ。数少ないまだ明かりが点いている店も、灯夜がもじもじしているうちに、次々と暖簾を引っ込めて軒行燈を消していった。

 それなのに、すぐ引き返さず、ここまで来たのだ、一目大通りを見てから、と灯夜は意地になった。それがいけなかった。大通りを目指して何度も路地を曲がるうち、灯夜は元に戻る路も分からなくなってしまった。路を尋ねようにも、今や周囲に明かりの点いた店は見当たらず、僅かあったはずの路行く人影もない。灯夜は、地図も持たずに初見の街へ迷い込んだ自分を責めた。しかしもう遅い。まばらに立つ心もとない外燈が、辛うじて闇を追いやってくれてはいるものの、心細さからくる焦りで、自然灯夜は足早になった。

 

 歩き回ってしばらく。灯夜の視線の先で、遠くぼんやり明かりが揺れた。彼は縋る思いで其れへ駆け寄った。割烹と書かれた軒行燈だった。助かった。灯夜は路を聞くため、店に入ろうとするも、何故か入り口が開かない。店内から漏れてくる、さざめく談笑、食器のぶつかる音、しとやかな琴の音のBGM。店の裏へ回ってみると、格子窓があって、店内の音はそこから漏れていた。灯夜は、格子の隙間へ効き目の左目を近づけた。中の客の一人が、くるりと首を回して真っ直ぐ灯夜の方を見た。

「旨そうな星の付いた目じゃの。」

 吸われるように、灯夜は顔を更に格子に押し付けた。左目の脇の皮が強く引っ張られて左目が飛び出そうな感じがする。

 灯夜は飛び退いて逃げ出した。さざめきと音楽は遠ざかって、そのうちに途絶えた。

 客は、十人もいたようだった。果たして十“人”と言ってもいいものだろうか。どれも頭は狐であった。灯夜は左目辺りに手を当ててみた。格子の跡がくっきりと付いていた。

 

 気が付けばまた違う路地にいる。

 灯夜は歩みを緩めた。目の前を男が歩いていた。暗いし顔も見えないので、歳の頃はよく分からない。観光客らしく、数歩歩いては立ち止まり、カメラを構えて周囲を撮っている。フラッシュを焚いていない。この闇の中、弱々しい外燈の明かりだけを頼りにどれほどの情報が写せるのか疑問である。人を見かけて灯夜はほっとしかけたものの、フラッシュを焚かずにシャッターを切り続ける様が気味悪く思えて、結局道を尋ねずに、歩みの遅いその男を抜かして歩いた。

 しばらくして、背後で経を読むような声がした。灯夜が振り向くと、先の男が灯夜のすぐ背後に立っていた。俯いている。男一人のはずが、何故か気配は一人分より多い。気配ばかり、三つ、四つ、五つと、急速に増えていく。灯夜は前に向き直ると、再び駆け出した。駆けるうちに、大きな鳥居が灯夜の目の前にぬっとそびえ立った。勢いのまま鳥居の中に転がり込む。

 男は、鳥居の前を横切り通り過ぎていった。ぞろぞろと何かを大量に引き連れている。

 暫く経って全ての気配が消え去った。灯夜は境内を出ようとして、其処に外燈に照らされた地図の看板を見つけた。ここまで迷えば、当初の予定通り、大通りを目指すのが一番の案だ.灯夜は大通りまでの路を頭に叩き込んだ。

 神社があるこの広場には数本の路地が通じていて、そのうちの一本が大通りの裏に当たるようだった。灯夜は、その裏通りに入った。

 

 裏通りに入ったものの、灯夜は大通りへの抜け路をなかなか見つけられずに、うろうろと彷徨った。三度、四度、行きつ戻りつした頃である。通りの外燈が全て消えた。灯夜は酷くうろたえた。しかし、無慈悲な消燈と入れ違うようにして、一軒明かりを点す店があった。灯夜は店に近づいた。米屋だ。格子戸から、大量に積まれた米袋が見える。その米袋の山の奥、主人らしきが立っていた。じい、と灯夜を見つめてくる。灯夜は、相手の視線の意味を図りかねて少し戸惑ったが、それでも意を決して口を開きかけたとき、米屋の主人は店の明かりを消した。

 通りを闇が支配する。

 灯夜は背筋が寒くなった。

 すぐにも米屋から離れたかったが、あまりに暗いので、上手く動きが取れない。諦めて、とにかく目が慣れるまで、その場を動かずにいた。

 一軒一軒の途切れ目が、なんとか分かるくらいまで目が慣れた頃、改めて辺りを見回してみた。米屋からはなんの気配もない。

 米屋の丁度向かい、店と店の途切れ目の奥が、目の錯覚か、不思議に青く見えた。その狭い途切れ目に、無理矢理体を滑り込ませてみると、狭いのは入り口だけで、後はきちんと路地になっていた。先まで、入れるとは思わず素通りしていた箇所だった。灯夜は、青く浮かぶ裏路地を路なりに曲がり続けた。時が止まっているような路地だ。早く抜けたくて足が急く。

 急に目の前が開けた。茶屋街に踏み込んで以来の広い路だ。相変わらず店はどこも閉まっているものの、僅かだが、連れ立って歩く人影がここにはあった。大通りへ出たのだ。

胸をなでおろす灯夜の背後から誰かの手が伸びて、彼の左頬を撫でた。

「仲間が、さぞかし美味と思われる星を、神社の前で逃がしたと教えてくれてね。彼奴、歯噛みしておったわ。どうせ大通りへ来ると思って待ち伏せていたのだが、随分早かったね。米屋にでも助けられたか。」

 若い女の声だった。触れてくる手も柔らかい。その指が、灯夜の左の目元を摘(つま)んだ。

「この星をくれぬか。くれるなら、私もそなたに、欲しいものをやろう。」

 目の前が真っ白になった。何者かに羽交い締めにされ、口元を覆われる。

 

   * * *

 

「灯夜、灯夜、落ち着け。」

 暗い大通りが視界に戻った。体も口も解放される。灯夜は思い切り息を吸い込んで咽せた。

「ごめん。お前が大声で叫ぶから、つい。いきなり照らして悪かったよ。」

 兄は、手に持った小型の懐中電灯を灯夜に示した。

「……兄さん、どうして。」

「お前こそ、どうして夜にこんな遠くまで出歩くんだ。しかも、ここは……、お前の来ていい場所じゃない。」

 灯夜は殴られた感覚がした。分かっていても、こうもはっきり面と向かって言われると苦しかった。

「どうして。ここが、兄さんたちの思い出の場所だから。」

「……。」

 都馬は眉をひそめて灯夜を見た。灯夜は止まれなかった。

「知ってるよ。あなたたちにとって、ここが特別な場所だって。母さんも言ってた。〝夜の茶屋街〟は、花音(はるね)さんのお気に入りの場所だって。家族三人で毎年〝夜の茶屋街〟に来ていたんでしょう。僕が家族の中に入り込んでしまってから、来なくなったんだ。何故僕を引き取ったの。邪魔なんだろう、全く血が繋がっていないから――」

 都馬は灯夜の頬を平手で強く叩いた。

「馬鹿野郎。十三にもなって、下らないことをわめくな。」

 灯夜は、痛みを堪えきれずに嗚咽した。都馬は灯夜を抱き寄せて、自らが打った、彼の左頬の具合を確かめようと、其処を懐中電灯で照らした。照らしてみて息を呑み、それから溜め息をついた。

「お前、盗られたな。……怖い思いしておいて、よくも今みたいな台詞が言えるもんだ。俺たちが、思い出の場所よりお前が大事だってことが分からないのか。」

 兄は旅館から自転車を借りてきていた。後ろに乗せてもらい旅館へ帰った。帰り道、心配をかけるから両親には茶屋街へ行ったことは言うな、と兄に釘を刺される。灯夜は、兄の背に額を押し付けて小さく頷いた。中学に上がるまで、ふざけてねだっては、何度もこの背に負ぶわれていた。こんなに精悍な感じだっただろうか。灯夜は、自転車が揺れる度、怖いふりをして、兄の背に思い切り抱きつき、夢中になって彼の体温を感じた。

 

 両親は宿の玄関の間で待っていた。彼らは彼らで兄とは別のエリアを探して回ったらしかった。二人は灯夜を見るなり、夜に一人で出かけたことを責め、どこにいたのか問い質そうとした。兄が適当にはぐらかしてそれに答えた。灯夜は兄に調子を合わせつつ謝った。

 部屋へ戻り両親と別れると、兄は灯夜に、床の間の傍で寝ろ、と、準備されていた布団の片方を床の間の前へ移動させた。いぶかしむ灯夜に、兄は、床の間の掛け軸に描かれた絵とその下の生け花を指し示して、お前が化け物に盗られたものが戻るかもしれない、と言う。

「……そんなこと、どこで知ったの。床の間が、そういう……ものだって。」

 兄は、あっけらかんと、都子(みやこ)さんから聞いた、と言う。都子は、灯夜の実母だ。母子家庭だった。灯夜が五歳の時、夭折した。以後灯夜は、血の繋がらない篠崎の家の養子になった。

 

   * * *

 

 翌朝兄に誘われて、朝食の前に大浴場へ行った。浴場の出入り口前の暖簾で、既に湯上がりの父とすれ違った。

 人気のない露天風呂を、兄と独占するのは気持ちが良かった。ひさしと竹塀の間から青天(あおぞら)が覗く。目を閉じて、中庭から響いてくる鹿威しに耳を澄ませていると、いきなり兄が、手持ちのタオルで灯夜の左目元を強くこすってきた。灯夜は兄の腕を払いのけた。

「何するんだよ。」

「いや、こすって消える偽物が戻ってきてたとしたら、お前、もっと有能な床の間の部屋を借りて、もう一泊しなくちゃならないだろう。だから確かめたんだ。」

 灯夜は笑った。小さな星は消えずに、こすられて赤くなった灯夜の目元で光っていた。

昨夜どんな夢を見たのかと兄が聞くので、灯夜は、掛け軸の鯉は部屋を泳ぎ、生け花の影は紅い着物の女の子に化けた、覚えているのはそれきりだ、と答えた。自身は夜通し寝たきりだった気がするので、彼らが取り戻しに行ってきてくれたんだろう。兄はつまらなそうに、へえ、と返事をした。拍子抜けしたようだった。化け物同士の壮絶な戦いでも期待していたのだろうか。

 頭を風呂の囲い石にもたせつつ、体を仰向けに浮かせる兄を、灯夜も隣りで真似た。兄が言った。

「もう母さんのこと、花音さんって呼ぶなよ。」

 灯夜も目を閉じたまま、はい、と返事をした。しなやかな四本の足が、湯の中で所在無気に揺蕩う。

 

 朝食の席で、都馬は、灯夜が茶屋街へ行きたいらしいと両親に告げた。母は、少し悩む仕草を見せたが、首を縦に振った。その反応に期待を寄せて、灯夜が、夜に、と問うと、母はすかさずそれは駄目だと断った。都馬が呆れ返って灯夜を見る。寂しそうな顔をする灯夜に、母は言った。

「知らなかったかしら。ここの茶屋街、夜は、あなたみたいな人には面倒が多いって話なの。昼間だって面倒がないわけじゃないかもしれないけれど、もうあなたも幼い子じゃないし、少しのことなら自分で対処できるでしょうからね。でも夜は駄目。まさか、都子のところまで行ってしまうなんてことはないとは思うけれど、それでもとにかく駄目よ。」

 ねえ、と母は父を見た。父は、愉快そうに目をきらめかせて笑った。またお化けの話か。お前はそういうのが好きだねえ。母は溜め息をついた。

「都馬が灯夜を守ってあげられるなら良かったんだけれどね。まるで見込みの無いこの人の血を引くんだもの。頼りないったら。」

 父は、母に好きに中傷されても一向に平気な顔だった。一方で都馬はふてくされている。

「でも兄さんは、昔に僕の母さんから教わったこと、沢山覚えているみたいで……、」

 灯夜は、兄を庇おうとして、しかし昨晩のことを秘密にしながらでは、どうにも上手く言葉にできなかった。それでも母は、灯夜の言うのを聞いて、ひどく嬉しそうに微笑んだ。

 

 家族は旅館をチェックアウトして、その足で茶屋街へ向かった。母は、久々の茶屋街に心が躍るようで、街に着くなり、半ば強引に父の腕を引いてさきさき歩いていってしまう。灯夜と兄は、のんびりとその後方からついていった。

「彼女へのお土産、何にしたの。」

「九谷焼の湯呑み。豪華だぜ、俺の絵付けだから。」

「あまり安物のお土産は、千穂さん余計に機嫌を損ねると思うな。」

 兄は灯夜の髪を軽くかき乱した。

「一人前の口、ききやがって。……お前さ、何か欲しいもの、あったんじゃないの。」

「え。ううん。お土産の話?」

 兄は、しばらく間を空けて答えた。

「……取り引きの話。」

 灯夜は思わず兄を見上げた。

「……なんで、」

「だから、都子さん。ああいう類いは、案外律儀なんだ、って。お前、盗られたんじゃなくて、取り引きに応じたんだろう、本当は。それ、返ってきたってことは、欲しいものは諦めたのか。」

 灯夜は黙した。口にすればきまり悪いし、罪悪感も伴う。あまり答えたくなかった。

「……ふうん。答えたくなければ、別にいい。」

 不満がありありと窺える兄の様子に、灯夜は可笑しくて吹き出した。

「諦めたよ。欲しいものじゃなくて、失くしたいと思ったものがあったんだ。」

「失くしたいって……まさか、」

「そう。一切感じなくなりますようにって。そうしたら僕も夜の茶屋街へ一緒に連れて行ってもらえるから。」

「お前、実の親から貰った形見を、罰当たりにもほどがある。それに俺らは、俺も母さんも父さんも、初めから一度だってお前を――」

「もう分かったってば。諦めたって言っているだろう。鯉にも女の子にも昨晩夜通しで説教されたんだ。もう説教はしばらくご免だよ。」

 兄さんも大概節介焼きだ、合意の取り引きと知っていながら、僕を床の間の前で眠らせて取り引き解消させたんだね。何故さ。身内に化け物と取り引きした人間がいるのが許せない?

 その言い草に溜め息をつくと、都馬は不意に左腕で灯夜を抱き寄せた。驚いて思わず身を引こうとするのを許さずに、彼は右手で弟の左頬をくるみ、親指でその泣き黒子を優しく撫でた。

「俺はこれが好きだっただけだ。これを取り戻したかっただけだよ。」

 灯夜は撫でられた目元がじんわりと温まるのを感じた。温みはともすると涙に成りそうで、急いで顔から兄の手を引きはがす。兄は今度は素直に顔を放してやると、代わりに弟の手を取って歩く。手を繋ぎ歩く兄弟を、前から母が呼んだ。

 

 家族四人、並んで茶屋街の大通りを歩く。秋の高い(そら)が清々しい。