1マーガレットの妊娠

 
 島の中心には、泉があって、泉には滝も流れ落ちている。滝は小振りだが、常に衰えること無く、その水しぶきのために泉にはいつでも虹がかかっている。だから、彼らはこの泉を“虹の泉”と呼ぶ。彼らに会いに行こうか。彼らとは、漂流の末この島に流れ着き、そのまま島に居着いている人間達のことだ。島には、彼ら以外に人間は住んでいない。
 滝の裏側に洞窟の入り口がある。入り口は狭くて、まだ大人ではない私でも入るのに苦労するが、入り口さえ抜ければ、後は広くなっている。しばらく進んで、外の明かりが届かなくなってくると、岩壁を穿って差し込まれた松明の明かりが見えてくる。松明に照らされて、細い蔦を編んで作った、長いカーテンが浮かび上がっている。カーテンを手で避けてくぐると、下へ続く階段が現れる。階段は回転して下っていく。点々と続く松明。階段には、石造りの瓶がいくつも置いてあって、それぞれ、松明に使う丸太や、様々な変形の石、木の実などが詰まっている。
 階段を下りきると、木の板を組み合わせて作った、不格好な扉がある。私はゆっくり扉を開けて、中に忍び込むと、できるだけ音を立てずに閉めた。
「まあ、驚いた。いらっしゃい。」
 向こうから、アンジェラが笑顔で私を見ている。アンジェラは、木の椅子に腰掛けて、ヤシの葉で籠を編んでいた。
 私は、アンジェラに近づくと、彼女の手元を覗き込んだ。随分大きなサイズの、長い籠だった。
「……何に使うの。」
 私が聞くと、アンジェラは微笑んで答えた。
「マーガレットの子が、もうすぐ生まれそうなの。」
 アンジェラの声が、歌うように弾む。濃い茶色の髪を一本の三つ編みにして、肩から前へ流している。煮出した植物の色素で、臙脂に染まった麻の長いスカートをはいて、同じく臙脂の麻のショールを肩に掛けていた。
 籠を編み続ける彼女を、私は見つめ続けた。すると、彼女は手を止めて、恐る恐るといった調子で私を見上げて問うた。
「……例えば、今、私があなたを歓迎の意味で抱きしめたとしても、あなたは消えてしまったりしないかしら。」
 私は慌てて首を振った。私だって、会いたくて来たのだ。
 よかった、と息をついてアンジェラは言うと、籠を置いて立ち上がり、私を柔らかく抱きしめた。体を放すと、彼女は言った。
「あなたに会うのはこれで二度目ね。」
「私は、アンジェラがこの島にやってきたときから、ずっと見てきた。マーガレットのことも。他の人たちのことも。」
「……そのようね。私たちの命の恩人は、あなただったのね。」
 私は、重すぎるくらいの感謝の念を感じて、戸惑った。私の戸惑いを察して、アンジェラは慌てる。
「消えてしまうの?」
 私は思わず笑った。
「まだ帰らない。来たばかりだもの。ただ、あまり感謝されると、変な感じ。」
 アンジェラは、不思議そうに頷く。
 私は、この島をよく知っていた。熟知、とは違うが、この洞窟の場所を彼らに伝えたのは私だ。その他、彼らがこの島に暮らしてまもない頃、食料や衣服や、島では手に入りそうもない様々な生活必需品を積んだ船を、この島に漂着させたのも私だった。しかし、その船はたまたま都合良く、そうした運命を辿って然るべき船だったのだ。それに、その船には、カナレアも乗っていた。その少女が、彼らに幸運をもたらしたのか、不運をもたらしたのか、まだ分からなかった。
「私は、疫病神にもなり得る。」
 私がそう呟くと、アンジェラはきっぱりと首を横に振った。
「あの船が無ければ、私たちは今頃皆飢え死んでいる。」
 甲高い声が聞こえた。私が入ってきた扉の対角にも扉があって、声はその向こうから聞こえてくる。
 アンジェラの顔が曇った。
「ごめんなさい、せっかく会いにきてくれたのに……。やはり今日はもう帰ってちょうだいな。」
 私は、黙ったまま、その声の方に向かう。アンジェラは、私を引き止めようと私の腕を掴んだが、私が彼女の目を見つめると、俯いて腕を放した。元の通り、椅子に腰掛け、籠を編むのを再開する。
 奥の扉を少し開いて、隙間から向こうの様子を窺う。覗いたその場所は、この洞窟に住む彼らの共有の広場になっていた。広場には、私の覗くこの扉含め、三枚の扉が並ぶ。それぞれの扉の奥も、洞窟が幾つも連なっていて、それぞれの入り口を木の扉で塞いである。
 扉の一つが開いていて、そこにマーガレットがこちら向きに立っている。ほぼ加工されていない大きな麻布を、体に巻き付けているきりの格好をしている。妊婦であることは誰の目にも明らかだった。私が前に島を訪れたときには、マーガレットはまだ妊娠をしていなかった。この人達が、私の助け無しに、どうにか生活の目処がたてられるようになってから、私はしばらくこの島を尋ねることを止めていた。美しかったマーガレットは、窶(やつ)れていた。薔薇色だった頬は青白く、輝いていた金髪は、白髪が交じって艶を失っている。大きな青い目は、不安気にぎょろぎょろと動いている。しかしそれでも、この人達の中で最も美しい女であることには変わりなかった。
 マーガレットと向かい合うように、ショートカットの背が高い女が立っている。アンジェラとお揃いのスカートとショールを身につけている。色違いの紺色だった。彼女はメグだ。アンジェラの双子の姉だった。今まで、メグはマーガレットの部屋を訪ねていたらしい。彼女はマーガレットに対して、ヒステリックに叫び続けている。
「どうして皆に理解を求めようとするの。いいじゃないの。私以外は皆――私とルミ以外は皆、きっとあなたの子を祝福するわ。それで十分でしょう。」
「……ルミも、おめでとうと言ってくれた。」
「……ああ、そう。それなら尚更、良かったじゃないの。」
「メグにも祝福してほしい。」
「絶対にできない。できるわけがない。この状況下で子供を産むなんて、あまりに無責任だわ。」
「……お願い。」
 マーガレットは、必死にメグの肩を抱こうとする。メグは、そのために自分の腹に押し付けられたマーガレットの腹を睨みつけると、彼女の頬を叩いた。
「何故あなたって、そうなの。そんな同意の求め方は、あまりに無理矢理だわ。出来るだけ迷惑をかけないようにする、とか……、そういう言葉は、出てこないの。」
「だって、迷惑をかけないなんて、無理だわ。皆の――あなたの協力無しで育てるなんて、できない。あなたの愛無しで――、」
 メグは更にマーガレットの頬を打った。
「愛とか、言わないで。あなたに、私の愛の何が分かる?」
 メグは下を向いて、低い声で言う。
「堕ろして。」
 声も出さず、目を見開いたまま、マーガレットが泣いている。私は、マーガレットが泣くのを初めて見た。
 メグが、私の方に歩いてくる。私は急いで身を引いた。メグが部屋に入ってきて、勢い良く扉を閉めた。
「……盗み聞きするくらいなら、堂々と出てきて言いたいことをはっきりおっしゃったらいかが?アンジェラ・クレーグ。」
「私、そんなつもりじゃあ、」
「じゃあどうして扉が開いているのよ。」
 メグは、私の前を素通りして、アンジェラに近づく。隠しようも無く、編み途中の大きな籠を抱えたままメグを見上げるアンジェラ。メグはアンジェラから籠を奪い取ると、力任せに下に投げつけた。アンジェラは、驚いて思わず立ち上がる。妹にも手をあげるメグ。叩かれた頬を押さえて、アンジェラは怯えて肩を震わせた。
「何か言いなさいよ。」
 何も答えないで俯くばかりのアンジェラ。メグは、耐えるアンジェラの様子に余計に逆上して、更に、彼女の頭や肩や腹を殴りつけた。アンジェラは腹を押さえて踞った。唸っている。それでも何も言わない。
 アンジェラ、あなたはいつも逃げるんだね。卑怯者。そして、メグは、逃げ道を知らない。私は、アンジェラの代わり、メグの耳元に顔を寄せて囁いた。
「愚かなメグ。」
 メグには私の姿は見えないし、私の声は聞こえない。それでも、メグは、私が囁くと、足を引きずるようにして、自分のベッドに行ってそこにうつ伏せに倒れ込んだ。低い木の台に、枯れ草を敷き詰めて布を被せただけの、獣用かと思うようなベッドだ。泣いている。メグのくぐもった泣き声が洞窟に反響する。
 メグが泣いたのを見るのも、私は初めてだった。