2夜の虹の泉

 
 ノックも無しに、ロルフが部屋に入ってきた。当然だろう。身重の妻に暴言を吐いた女の居る部屋なのだ。メグは歯を食いしばって泣くのを止めると、上半身を起こしてロルフを見た。ロルフは、メグの泣き腫らした目を見て、怒気を挫(くじ)かれたようだった。彼もメグのベッドに腰掛ける。
「……堕ろせなんて、あんまりじゃないか。」
「……。」
 初めにルミが言ったのだ、と喉元まで出かかったのを、メグは飲み込んだ。混乱していた。マーガレットは、ルミは喜んでくれたと言っていた。しかし確かに、ルミは私に、堕ろさせた方が良い、と言ったのだ。いや、そんな言い方はしていなかったかもしれない。私達で赤ん坊を無事に育てることができるのかどうか不安だ、と、そう言っていただけだったか。
 ……自分の暴言を、人のせいにしてはいけない。
「私だって、言いたくなかった。こんな状況じゃなければ、望まれたって口にしたくない言葉だわ。こんな、明日を保証されていない無人島生活――。毎日、全力以上を出して、どうにか、十一人で生き延びている、先の見えない恐怖に怯えながら。それなのに――、」
「お前は現状を悲観しすぎだ、」
「――もう一人増える!意味も無く。冗談じゃない。」
 ロルフは、メグの両腕を捕らえると、乱暴に揺さぶった。
「人の子に向かって、意味が無いとは、お前、地獄に落ちるぞ。」
「私達皆、とうに地獄に落ちているじゃない。今が地獄よ。」
「落ち着け……。僕達、チビたちまで、今まで通り皆で協力し合えば、」
「協力って言うなら、子供を作らないでよ……。」
 堪えきれずに、再び泣き出すメグを、ロルフが抱きしめた。アンジェラが部屋を出て行く気配がする。気を利かせたつもりだろうか。いつもいつも、妹は良い人のふりをして、逃げる。
 しばらく泣いて、少し涙が止むと、メグは目を押し付けていたロルフの肩から顔を上げた。彼のむき出しの肩が、メグの涙で光っている。彼は上半身には何も纏っていない。腰回りに、小動物の皮から作った紐を通した、短い麻のパンツを履いているきりだ。彼も、アレックスも、億劫なようで、常に上半身は裸だった。彼らのうち、男勢は、ロルフとアレックスのたった二人だけだった。
「……野生暮らしで、頭も下半身も何も、獣並みに戻っちゃったのね。」
 メグは、そう言いながら、鼻で笑う。自棄だった。生まれてはじめて、彼女はこんな下品な台詞を口にした。しかも、男の前で。
 ロルフは狼狽えて口ごもった。女から、これほど下品に貶されたことは初めてだろう。
「違うよ、違うよ……。そうさ、それにカナレアが、大丈夫だって言ってくれたんだ。」
 狼狽えたロルフが、思わず口にした言い訳に、メグは頭を殴られた気がした。
「……カナレアだって?」
 ロルフは言募る。
「ああ。カナレアが、祝福してくれたんだ。彼女が祝福してくれたなら、怖いことは何も無い。そうだろう。」
 何を言っているのだ、この男は。メグはロルフの目を見つめた。その無邪気な琥珀色の瞳の煌めきは、五年前、S・S・コロンビア号の船内で、初めて出会ったときと、まるで変わらない。陰りの無い瞳。
 この男は信じきっている。カナレアを。ただの幼い少女を。白くて、枝のような手足をした、人形のような少女。彼女は、見た目からして、きっと十にも満たないに違いない。見た目で判断するしか無かった。歳を聞いても、首をひねるばかりなのだから。
「カナレアは、何の力も無い、ただの女の子じゃないの。」
「何を言っているんだよ。彼女がいるから、僕達は今生きている。僕達は、彼女に生かされている。彼女は、僕達の女神だ。」
 メグは、突然、胃の辺りが冷たくなるのを感じた。真っ直ぐな彼の瞳の輝きが、彼女はずっと好きだった。今、それが怖かった。
 
   ***
 
 メグとマーガレットの諍いらしき声が聞こえなくなって、しばらく。レナは、鬱々とした面持ちで、子供達のベッドの端に腰掛け、そのベッドに一塊になって横になる子供達の寝顔を見つめていた。ニーナ、アンジュ、それに、カナレア。彼女達は、遠く諍いの声が聞こえても、何も言わずに、就寝前の祈りを唱えてベッドに入り、いつも通り、レナに物語をねだった。そうして、それを聞きながら、従順に眠りについた。賢い子供達。レナは、それぞれの額に、そっとキスをする。赤毛で、ツンと大人びた鼻のニーナ。栗色の豊かな髪に、優し気な垂れ目のアンジュ。波打つ金髪、人形のような小さなカナレア。
 子供達のベッドの隣には、レナのベッド、ルミのベッドも並ぶ。ここは子供部屋と呼ばれている。幼い子と同室にされることに異議はなかった。それに、島に流れ着いた当初は、レナも十七歳、ぎりぎり子供で通用する年齢だったのだし。……今や二十二になるが。
 当初十六歳だったルミも、同室だったが、今はあまりこの部屋には寄り付かない。毎晩空のルミのベッド。一体どこで寝泊まりしているのか。
 ルミと同い年のアレックスは、男なので、部屋は分かれている。それでも戸を一枚隔てた隣室だった。レナは立ち上がって、アレックスの部屋に通じる扉を遠慮がちにノックする。返事は無い。それでもそっと扉を開ける。案の定、アレックスは既にベッドに横になり、小さく寝息をたてていた。レナは、彼の眠るベッドの前を通り越し、奥にある、もう一方の扉から部屋を出た。小さな松明が疎らに灯る通路を、頭を岩壁に打つけぬように気をつけながらしばらく進むと、縄梯子が見えてくる。それを登って、辿り着いた先の木戸をはね上げれば、地上に出た。虹の泉に流れ落ちる川の縁に出る。
 この、人工の外出ルートは、アレックスのために作られたものだった。このルートが無ければ、アレックスは、レナ達の子供部屋を通り、更にメグ達クレーグ姉妹の部屋も抜けなければ、外に出られないことになる。それは、男のアレックスにとって、あまりに不便な話だ。実際、このルートを作る前は、彼は散々不便な思いをしたはずだ。ロルフ達ゴールド夫妻の部屋にも、同じように人工の抜け穴があって、出口は、川を挟んで反対側にある、もう一枚の木戸に通じている。
 今夜のように、滝裏のクレーグ姉妹の部屋を通らずに外出したいとき、レナはアレックスの外出通路を使わせてもらっている。いつでも使って良いと、アレックスから、許可は得ていた。後ろめたさは無い。アレックスとは恋人同士だ。
 川を伝い、滝まで戻ると、滝の横、岩壁に刺した杭を伝って、虹の泉に降りる。メグとマーガレットのせいで気が滅入って眠れないから外に出るのだというのに、メグに気兼ねして、たった泉の傍に行くのに、これほど遠回りをしなければならない。レナは苛々した。けれど仕方がない。話し合いで決めた部屋割りだった。それに、皆の公共通路でもある部屋に住むクレーグ姉妹だって、違う心労があるだろう。
 虹の泉は、夜は勿論虹は見えないものの、美しいことに変わりはなかった。月星を映して淡く煌めく泉の水面を、蛍等の光虫が漂っている。絶えない滝の音が、よりその景色を清らかなものにする。
 レナの心が落ち着いていく。ふと、傍に気配を感じた。この島に、人より大きな獣はいない。いるのは、兎より小さい小動物ばかりだった。慌てる必要はない。
 近づいてきた気配は、そのうちに草を踏み分ける足音に変わった。その足音で分かる。
「アンジェラね。」
「誰かと思った。レナだったのね。」
 互いに自嘲気味に笑い合う。闇の中、月明かりや光虫程度の明かりでも、傍の人の気配を即座に感じ取ることが出来る。五年前には、出来なかったことだった。
「アンジェラ、あなた、こんな夜中に草を摘んでいるの。」
 問うレナに、アンジェラはゆったりと答える。
「ええ、そろそろまた、新しくベッドに詰めようと思って。」
 彼女は、大きなヤシの籠に、草を集めていた。何の気無しに、レナは籠に手を伸ばし、それを掴む。二十センチ程の丈の、丸い葉の付いた草ばかり、自分が握りしめたのに気付いて、レナは怪訝に思う。
「……毒草ばかりを詰めるの。」
「だって、口に入れるわけじゃないのだし。乾かして、シーツの下に詰めるだけなら、何の問題も無いって、フェリックスも言っていたじゃない。」
「そうだけど。何も、毒草ばかり集めなくたって。」
「食べられない草の有効利用よ。」
 アンジェラは、それきりしばらく黙って泉を見つめている。
 部屋にいるのが気まずくて、外で草等摘んでいるのだと、正直に言えば良いのに。
 レナは、アンジェラにつられるように、同じく黙って泉を見つめながら、内心、メグとマーガレットについて一言も言及しないアンジェラを、少し鬱陶しく思った。