麗らかな昼下がり。煌めく花々、華やぐ人々。飾りテーブルに所狭しと並べられた、ティーカップ、ケーキ、サンドイッチ。

 莉李(りり)は独り、隅のベンチから、ガーデンパーティーの様子をぼんやり眺めていた。

 向こう、大人たちと丸テーブルを囲んで歓談している母の姿が見える。真っ白なレースのドレス、揃いのつば広帽子。帽子から覗く、キャラメル色の後れ毛。遠目にも、母は際立って美しかった。

 また違う方に目を向ける。林檎の木の下で、少女たちが集まって、内緒話をしている。その中心に、藍蘭(らら)がいた。ピンクのパフスリーブのドレスを着ている。華やかで愛らしい彼女に、よく似合っていた。

 莉李は顔を伏せて溜め息をついた。手持ち無沙汰に、そばで咲く花の色など数える。ガーベラ、鮮やかな赤、黄、オレンジ。スイートピー、儚気な薄紅、薄紫、雪の色。薔薇、ビロードの真紅、臙脂、またはクリーム色のフランネル。チューリップは――。

「莉李、」いつの間にか、向こうに居たはずの母がそばに来ていた。「私、これから友達と馬車で出かけることにしたから、先に帰っててちょうだい。」

 願ったり叶ったりだ。莉李は、そそくさとベンチを立って母に手を振り、屋敷に向かった(ここは中庭で、表門は、屋敷を抜けた向こう側にある)。しかし、歩いている途中で後ろから強くシフォンシャツの袖を引かれて、莉李はよろめいた。そのまま腕ごと抱き込められる。

「莉李、私ともう少しここにいて。」

 藍蘭だった。莉李は戸惑った。人前では、互いに寄り付かないのが暗黙の了解のはず……。

「藍蘭、ちょっと、」

 莉李は藍蘭を押しやったが、彼女は莉李の腕を離そうとしない。林檎の木の下の少女たちが、囁きあいながら莉李と藍蘭の方を見ている。母も二人の方を見ていた。

「いいから返事して。私とここに残るの、残らないの?」

「……勿論、君がそう言うなら残るよ。」

 藍蘭は満足そうに頷いた。母が微笑んでいる。

 

 莉李は元のベンチに戻って、藍蘭と並んで座った。

母は、男女数人と庭を出て行った。藍蘭の母親も一緒だ。彼女たちはしきりに耳打ちし合っていたが、不意に藍蘭の母親が、背高のシルクハットの腕を引いてきて、強引に母と並ばせた、様に見えた。しかし、それについて莉李がよく確認する間もなく、彼らは屋敷の中に消えた。

「茉莉さん、今日も誰より綺麗ね。」

 藍蘭が、うっとりと莉李の母を褒めた。

「葉子さんだって、同じに綺麗だよ。」

 莉李が藍蘭の母親を褒めて返すと、藍蘭は笑った。

「本当は莉李だって、茉莉さんが一番綺麗と思ってるくせに。」

「そんなことない。」

 赤くなって否定する莉李に、藍蘭は言った。

「私のママは駄目、背が高すぎるし、健康的すぎるもん。女の人は、やっぱり華奢でなくちゃ。」

「……ねえ、なんで急に僕を引き止めたの。」

「あなたが急に帰ろうとするからよ。今日のこの機会に、あなたとどうしてもこの庭を散歩したかったの。本当は目立たないように、皆が行っちゃってから誘おうと思ってたのよ。」

 藍蘭がそう言って間もなく、少女たちが、藍蘭にさよならを叫びながら、庭を出て行った。少女たちのうちの誰かが、さよならの代わり、お幸せに、と叫ぶと、彼女たち皆、わっと湧いた。誤解されていることに鬱々となりながら、莉李は、この家の娘である星羅(せいら)までも、彼女たちに混じって藍蘭に別れの挨拶を叫んでいるのを見て、首を傾げた。

「星羅は一体どこ行くの?」

「……もしかして忘れてるの?」

「何を?」

「呆れた。ロメオとジュリエット、公演開始は今日の三時よ。我らが王子、亜麻崎(あまさき)君のロメオを見逃す乙女が何処にいて?」

 しまった。思わず立ち上がった莉李に、藍蘭は寂しそうに聞いた。

「やっぱり行っちゃうの……?」

 莉李は、バツが悪い思いで再び座った。

「忘れてたから驚いただけで、別に観に行こうとしたわけじゃない。」

「でも、テニスの試合も詩の朗読会も、あなた、彼が出れば必ず観に行くじゃない。」

「それは、(こう)が来いって言うから……。」

「へえ。それで、今回に限って忘れたのはなんで?」

「……今回なんでか、昂のやつ、頑なに観に来るなって、それも僕だけに言うんだ、それで、喧嘩した……。ここんとこお互い避けてたし、気が滅入るから、あいつのことできるだけ考えないようにしてて、そしたら……本当すっかり忘れてた。」

 この町には、小さな美しい馬蹄形劇場がある。そこで毎年、春と秋の連休に、莉李の通う男子校と、藍蘭の通う女子校の生徒で、合同で公演をする。一応有志公演だが、メインキャストの配役に関しては、キャスト当人の意志より、生徒による推薦投票の結果が優先されることが多い。

 亜麻崎昴も、当初は役を辞退する気でいたが、尋常でない数の票が彼に集まったために、辞退できない状況に追いこまれた。

 莉李は、『稽古だろうと本番だろうと今回絶対に観に来るな』と何度も昂から念を押されていた。にもかかわらず、とある日の放課後、稽古中の昂を冷やかしに行こうと言うクラスメートたちの誘いに乗って、劇場内の稽古部屋へ押しかけた。それ以後、昂は莉李と口をきこうとしなくなった。

 莉李は、昂がこれほど機嫌を損ねるとは思ってもみなくて、困惑した。いくら仲直りに努めても、彼は頑なだった。そのうち、莉李も不満が募った。

 稽古部屋へ押しかけたとき、主役二人はキスシーンの稽古をしていて、目撃したクラスメートたちは、そのことを学校で面白おかしく言いふらしたので、学年中が昂をからかった。しかし、からかってくる誰に対しても、昂はあくまで大らかなのだった。それなのに、唯一からかわずにいる莉李に対しては、無視を続ける。莉李は納得がいかなかった。

 結局最後は互いに無視し合う日々が続き、そのまま連休に入った。

 莉李は、公演を観に行かないのは、昂に対して自分が折れることになる気がして癪だった。でも、まあいいや、もう藍蘭とここに残るって約束しちゃったんだし。

 藍蘭はつまらなそうに溜め息をついた。

「あーあ、あなた、忘れてたからここに残ったのね。亜麻崎君より私を選んでくれたんだと思った。」

「……昴のことを思い出した今だって、僕、こうして君と居るだろ。」

藍蘭は、肩をすくめると、気を取り直してベンチを立った。

「来て。見せたいものがあるの。」

 藍蘭は莉李を連れて、林檎の木々を辿り、庭を奥へと入っていった。そこでは木々が密集し乱立していて、一見そこが庭の終わりに見えた。しかし、藍蘭に着いて木々の隙間を縫って抜けると、木苺の垣根に囲まれた小道に出た。

 藍蘭のドレスの裾が、一箇所小さく裂けていた。木の間を抜けたときに傷付いたのだ。

「それ、葉子さんに怒られるぞ。」

「これくらい。今日は、ママだって自由にしてるんだから、私だってそうさせてもらうわ。」

 木苺の白い花には、時折太った蜜蜂が留まっていて、それがまるで黄色い実のようにみえた。

 歩きながら、藍蘭が言った。

「ママは、茉莉さんが心配だから私も着いていくんだって言うの。でも、ママにはパパがいるのに、こういうパーティーがある度にパパを放っといて遊び回るのは、はっきり言ってどうかと思うわ。茉莉さんだって内心迷惑してるはずよ。ママの監視付きじゃ、楽しめるはずのロマンスも台無しだろうし。」

 歩くうち、木苺だった垣根が、イチイに成り代わっている。膨れて育ったイチイの垣根は、莉李と藍蘭の背よりも高い。陽を遮って、道を陰に閉じ込めた。

 暗い道は、次第に、二手に分かれ三手に分かれ、曲がりくねって莉李の方向感覚を奪いはじめた。道を覚えているらしい藍蘭は、莉李の前を迷わず進んでいく。

 道が大きく曲がる所を通ったとき、藍蘭が、曲がり角の向こうに一瞬姿を消した。莉李は思わず追いかけて、彼女の手を掴んだ。

 驚いて立ち止まり振り向いた藍蘭は、莉李の不安気な表情を見て溜め息をついた。

「そんなだから、亜麻崎君にも偉そうに振る舞われるのよ。大丈夫、もうすぐ出口だから。ほら、」

 藍蘭は、莉李の手を取りなおして、再び歩き出した。

 不安は解消されたものの、莉李は落ち込んだ。十三歳になってまで、同い年の女の子に、こうして慰められるのは情けなかった。それならば、不安になる度、馬鹿正直に藍蘭にそれを伝えるのを止めればいいのだが、幼い頃からの癖はなかなか治らない。勿論、他の女の子にこんなことはしない。藍蘭にだけだ。

 

 藍蘭の言葉通り、間もなく二人は垣根の迷路を抜けた。抜けた瞬間、久々の陽が眩しくて、莉李はぎゅっと目を瞑った。

 そろそろと目を開けてみて、莉李は思わず歓声を上げた。辺り一面、ルピナス畑だった。どこまでも、涼やかな薄青一色。

 藍蘭が言った。

「これを見せたかったの。昔に二人で読んだ、あの絵本みたいでしょ。」

 ごく幼い時分、莉李と藍蘭は一つの子供部屋を共有していた。部屋には山ほど絵本があったが、その中で二人の一番のお気に入りは一緒だった。とある女性の一生を描いた話。彼女は、世界各地飛び回るが、晩年、その素朴な景観を気に入って、北欧の小さな島に定住する。そして島中にルピナスの種を蒔く。見事種は芽吹いて、絵本の最終ページには、一面真っ青なルピナス畑が描かれていた。

 藍蘭は、初めての通学が始まるより前に、今の両親の養子になり、莉李の家を出ていった。藍蘭は、出ていってからは、必要以上に莉李の家へ来ることはしなかった。もし藍蘭が莉李の家に入り浸ったとして、互いの家の誰も、藍蘭を責めなかっただろう。それでも当時、寂しがる莉李に藍蘭は言った。『私も、莉李と離れて暮らすの寂しいけど、私がずっと莉李と暮らしてたら、今度は、私と莉李の代わりに、私の新しいママとパパが寂しがるでしょ。それは多分、莉李や私が今感じてるのより、もっと悲しい寂しさなんだと思う。だって、新しいママたちと私、まだ心が繋がってないんだもの。私とあなたは繋がってるから、大丈夫。そうでしょ?』

 

 二人は、風に揺れるルピナス畑を、黙って見つめていた。

 莉李は、そっと藍蘭に抱きついた。藍蘭は、自分のと同じ位置にある莉李の頭を、あやすように撫でた。

 莉李はそのまま、甘えた声で文句を言った。

「僕、母さんが再婚するの、嫌だ。」

「それなら、はっきり茉莉さんに伝えなくちゃ。」

 藍蘭は、莉李の両肩を持って身体を離すと、彼の顔を覗いた。同じ明度の、鳶色の瞳同士が見つめ合う。

「でも藍蘭だったら、そんな我儘言わないんだろ。」

「さあ、それはどうかな。それに私、今日のあなたほどはお人好しじゃなくってよ。今日のパーティー、子どもたちの中で男の子があなただけなの、分かってたでしょうに。私があなたの立場だったら、今日は絶対に出席お断りよ。」

「だって僕が行かないって言うと、母さん悲しむから。」

「じゃあ悲しんだついでに言ってやればいいのよ、新しい父さんは要りませんって。」

「……君がそんな風に言うなんて。」

「意外?……貴方達家族にはずっと、言いたいことは言わないできたものね。……言えなかったのよ。」

「藍蘭、」

 莉李は再び藍蘭を強く抱き締めた。藍蘭の言葉は、彼にとって衝撃だった。

「私、変わりたい。私も、茉莉さんの……お母様の再婚は嫌。伝えてくれる?」

 莉李は、藍蘭の肩に顔を埋めたまま、確かに頷いた。

 

 藍蘭は、莉李を更に庭の奥へ誘った。

 ルピナス畑を迂回して行くと、突然、黄薔薇のアーチが現れた。背の高いルピナスに隠れていて見えなかったのだ。二人は、アーチをくぐって進んだ。アーチは、いくつも連なって続く。

 莉李は、小さい声で藍蘭に謝った。

「僕、考え無しに君に甘えてばかりいた。」

「謝られると困るわ。私もあなたには甘えてるのに。今日だって、観劇の予定を無しにさせて散歩に付き合ってもらってるし。茉莉さんに嫌な我儘を言う約束もさせた。」

「……でも、母さんが僕の一言で再婚を諦めるとはとても思えないけど。」

「それはそうね。彼女にはまた、彼女の気持ちがあるんだから。」

 莉李は、家族に対して藍蘭が変わるのは、なかなか難しそうだ、と密かに思った。

「……そういや、君こそ春公演観なくて良かったの?君、ロメオとジュリエット、好きじゃなかった?」

「そうよ、だからこそ亜麻崎君のロメオなんか観たくないの。まあ、白百合のジュリエットまで観られないのはちょっと残念だけど。」

 今回ヒロインを演じる白百合は、藍蘭のクラスメートだった。

 実は莉李は、当初ジュリエット役に選ばれたのは藍蘭だったと噂で聞いていた。藍蘭は何も言わないが、彼女の華々しさを思えば、噂は事実に違いない。昂と組みたくなくて、藍蘭は頑として断ったのだろう。

 莉李は、藍蘭の家のパーティーで、何度か白百合と会ったことがあった。美しい風貌の少女だが、ひどくおとなしく、いつも藍蘭の背中に隠れている。劇のヒロインなど、進んでやりたがるようなタイプには思えない。藍蘭から押し付けられて、断れずにしぶしぶ引き受けたのかもしれない。しかしまた、白百合のような人物ほど、舞台では豹変するのかもしれない。何にしろ、あの顔立ちなら絵になることは確かだと莉李は思った。今頃、昂と似合いの恋人同士を演じているに違いない。

 黄薔薇の道の終点は、黄の花園なのだった。クロッカス、プリムラ、デイジー、マリーゴールド、どれも黄色ばかり咲いている。何より、至る所に植えられた藤の木が美しかった。花園を覆うように垂れて群生する黄花藤は、天然の天井となり、花園に降り注ぐ陽射しを柔らかく編んで、地面に投げ敷いた。

 藍蘭が、気まぐれに莉李の手を取って、ワルツのステップを踏み始めた。一瞬戸惑った莉李も、そのうちに楽しくなって、ふざけてステップのテンポを加速させ、藍蘭を強引に振り回したりした。

 子どものあどけない笑い声が花園に木霊した。

 

   * * *

 

「……それで?君は僕が一世一代の大恥を耐え忍んでる間、あの腹黒女とお楽しみだったわけだ。しかも他人の家の花園で。」

「……言い方がおかしいだろ。大体、君が観に来るなって言うから僕は、」

「君、忘れてただろう。」

 莉李は言葉に詰まった。昴の目元に赤味が走った。

「覚えてたなら来たはずだ。僕が拒むほど、意固地になって来ようとする、そういうやつだからな、君は。心の底では藍蘭と似て捻くれてるんだ。」

「なんだよ。僕が観に行っても行かなくても怒るのか。わけがわからない。捻くれてるのは君の方だ――」

 声を荒げた莉李は、昴の目元の赤味が涙に成りそうに見えたのに驚いて、続けて言おうとしていた言葉を飲み込んだ。代わり、深く息を吸って、努めて冷静に伝えた。

「君を忘れたんじゃない。公演の日にちをど忘れしちゃったんだ。公演のこと考えると、怒る君を思い出して憂鬱になるから、連休中も、できるだけ考えないようにしてて、そしたら、」

「要するに同じことじゃないか。」

「だから、君が初めから僕を招待してくれてればよかっただけの話だろ、違うか。」

 昴は黙って答えない。沈黙がおりた。遠く、テニスボールを打つ音が響く。

 昼休み、喧騒から逃れたい時、莉李と昂はよくこの場所に来る。学校敷地の東端、藻だらけの池と、それを取り囲む針葉樹の他は、雑草が蔓延るだけの、じめじめしたスペース。その昔、莉李たちが入学するよりずっと前に、東棟増設部分の陰になって以降、ほぼ誰も寄り付かない。

 沈黙は長く続いた。俯き向かい合って立つ二人。沈黙に耐えかねた莉李が、いつもの癖で、自らの手の甲に爪を立て始めたのを見て、昴はやっと謝る覚悟を決めた。

「……謝ると決めて、ここに君を連れ出したはずだったのに、ごめん。……八つ当たりだ。」

「……昂の馬鹿。意地っ張り。」

 大きな安堵を隠して莉李が口を尖らせると、昂は決まり悪そうに片耳を擦った。

「今回、本当に余裕がなかったんだ。望まない上、慣れないことを強制されるのは、かなり辛かった、わかってくれよ。……畜舎、あの腹黒女、」

「ちょっと。僕の前で藍蘭をそう呼ぶの、いい加減やめて。」

「ぴったりすぎてやめらんないね。僕の投票結果作り上げたの、あいつなんだぞ。」

「何言ってるの。君に票が集まったのは、誰のせいでもない。君の人気ぶりの通りじゃないか。」

「いいや、明らかにおかしい。総票数が例年の倍だったんだ。藍蘭が嫌がらせで、僕に票が山ほど集まるように、こそこそ動いたに決まってる。彼女が促せば、公演に興味あろうと無かろうと、この学校の生徒の大半が動くだろうからな。」

 莉李はしばし呆れた。そんな、まさか。

「……それでずっと怒ってたの?僕が、それを知っててとぼけてるとでも思った?」

「……いや。君が知っててとぼけられる奴じゃないのは分かってる。怒ったのは、だから、稽古を見られたとき、ただ、本当に気恥ずかしかっただけなんだ……。」

「……どうして、僕にだけ恥ずかしいと思うの。」

 莉李は、ずっとそれが疑問だった。聞かれて、昴は莉李の頭に片手を乗せると、莉李の鳶色の巻き毛をぐしゃぐしゃ掻き混ぜた。莉李より上背のある彼の、いつもの癖だ。

「やめてよ。」

 莉李は、不満気に昴を見上げた。昴は、子供じみた莉李の表情に、思わず笑った。

「君にだけ恥ずかしいと思うのは、それは君がいつまでもそんなだからさ。大人気は無理でも、せめて年相応の気を持ち合わせてほしいね。幼い子に見られてるみたいで、いたたまれなかったんだよ。」

「僕が観に行かなかったら観に行かなかったで、さっき泣きそうになってたくせに。子供っぽいのは君だろ。」

「仮にも僕の親友であるはずの君が、いつまでも赤ん坊みたいにお姉ちゃんにくっついて回ってるんだ、情けなくて泣きたくもなる。」

 莉李は、力任せに昴を押しやって、彼に背を向け歩き出した。そのツンとした華奢な肩を、後ろから勢いよく昴が抱く。ロメオと、それに親友との喧嘩の両方から解放されて、上機嫌の彼だった。

 

   * * *

 

 その年の秋公演は、キャストそのままで、春の再演に決定した。春公演時密かに集めた昂の推薦票について、彼に散々責められ、開き直った藍蘭が、今度は堂々と再演の署名活動をしたのである。昴は唖然として、もはや抵抗する気力が湧かなかったようだ。自棄になった彼が、今度は素直に莉李に招待状を渡したので、二人は再び喧嘩せずに済んだ。

 

 秋公演の当日、莉李と藍蘭は、二人並んで良席を確保した。藍蘭は、今回は表立って署名活動をした手前、観劇しないわけにはいかなかった。

 藍蘭は、莉李に微笑みかけた。

「茉莉さんの自粛、まだ続いてるみたいじゃない。」

「遊ぶのが好きな母さんのことだもの、いつまで続くかわかんないよ。」

「それにしたってお手柄だわ。是非、お礼させて。あのね……、」

 彼女は耳打ちをした。

「ミス・ジュリエット、もうすぐ誕生日なの。来週末、お家でダンスパーティーやるんですって。あなたを連れてくから、是非相手してあげてって伝えといた。どう?魅力的な御礼でしょ。ワルツのステップ、もう一度確認しておかなきゃね。」

莉李は気が動転して顔が熱くなった。

「僕行かない、」

「照れないでよ。」

「照れてない。」

「真っ赤、」

「そんな、違うよ、藍蘭、僕本当に、」

「そこまで気構えること何もないじゃない。ホームパーティーで、ただちょっと踊るだけなんだから。」

 くすくす笑う藍蘭に、莉李は一気に気分が塞いでしまった。頭の中で、一番ましな断り文句を懸命に探しながら、莉李は、度々藍蘭の気まぐれに振り回されている昴に、初めて同情した。自分が振り回されてみてようやく君に同情したと言ったら、昴はまた怒るだろうか。

 開演を知らせるベルが鳴って、場内のざわめきが止んだ。緊張が高まる中、紅い天鵞絨の幕が上がる。

 突如舞い込んだ舞踏会の予定に思い悩む莉李の心も、いつしか十四世紀のヴェローナの都へと惹き込まれていく。