七、夜半の森
夜の巫女の姿は、日の下で見るよりもずっと、異様な美しさを持っていた。
着物から突き出た顔も細く長い手足も、肩から胸へ流れる髪も、それから、月の眼を真っ直ぐ射抜く、大きな円の瞳、その全てが銀色に輝いている。
間近で見るのは、これで二度目だ。月は、巫女の持つ空気に、一瞬圧倒されて怖じけたが、すぐに何か堪えようのない衝動が湧き起こり、掴まれた片腕を振り払った。しかし巫女は、月に迫って、両腕を強く掴み封じた。細い腕なのに、月の腕を封じる力は大の男ほどに強い。
「行くな」
なんと美しい声。囁きすら、何処までも風に乗り渡っていくだろう。
「……どうして雨巫女様がここに」
月はか細く問うた。巫女は答えない。
月は、麻痺していた部分がどうにもこうにも苦しくなって、泣き出した。巫女は、月の腕を放した。
月は泣きじゃくった。巫女は、立ち尽くして月を見守るばかり。
どれくらい経っただろう。涙が枯れてきて、時々しゃくりあげるくらいに月が落ち着いた頃、夜の空気は一段と濃くなっている。
月は、弱り果てた声で、それでもようやく、一等知りたかったことを、一等聞きたい相手に問うた。
「巫女様、鮎は死んだのか」
巫女は、戸惑ったように瞬きをした。「死んでない、」
ならば、と月は食い下がる。「鮎に会わせてくんなせえ」
会いたい、会いたい、と今度は、なりふりかまわず地団駄を踏みだす月を、瞬きを繰り返し見ていた巫女は、ふと目を細めた。「そなたも……お前えも、うちが鮎じゃねえと言うんか」
今度は月が瞬いて巫女を見る。想いの映らない美しい顔。巫女が目を細めても、微かに眉をひそめていても、その凍えた美しさは変わらない。
「巫女様は、鮎じゃねえ…」
鮎はこんなに美しくない。無造作に跳ねるまとまりにくい髪、黒い眉、悪戯そうな目、小柄ですばしこい体。少し低く掠れて、温かい声。
「……酷い奴」想いの込もらぬ透いた声。「じゃけど、それでもうちは鮎じゃ」
聞いて、月の想いは、昇華も、深く沈んで濁ることも出来ないで、宙に浮いたまま、真に途方にくれた。
巫女は、ほ、と短く息をつく。
「信じてくれんでも良い。とにかく、どこへも行くな」
「どこへも……」
「気いつかんかった。もうずうっと、村の暮らしから遠ざかっとった。祷り女らに村の話を閉ざされとる。今宵久々家に戻って、豪勢な白布飾りに、目が眩んだ……、都へ嫁ぐつもりと聞いた。行くな」
婚礼の日取りが決まった花嫁のある家は、決まったその日の前日まで、家全体を白布で覆う。真新しく良い白布を何枚も重ね、余すところなく覆われた月の家。村中でそこだけが、今、雪景色であった。
月は、巫女様でも目が眩んだりするのか、とぼんやり思った。巫女は、応えない月の手を取って、もう二度、三度、行くなと言う。
「…もう、遅い」
ふと月は洩らした。
巫女は月の手を取ったまま、もう一方の手を自らの懐に忍ばせると、小玉を取り出して月の手のひらに乗せた。見るとそれは勾玉で、月明かりを吸い込んで蒼く輝いた。思わず月の目も吸い込まれる。
「これをやろう。だから行くな」
月は我に返って勾玉を巫女に突き返した。
「今更なんじゃ、ずっとうちのこと放っておいたくせに……」
気色ばんだ月の表情が移ったみたいに、巫女の顔が一瞬、仮面を忘れて揺れた。声も揺れた。気の早い秋虫の音のように涼やかに。
「……月こそ、なんじゃ。一度だって月からうちを救いに来てくれたことがあったか。月はいつもいつも、待つばっかり。うちがこんな風になっちまったときくらい、月から来てくれてもよかったじゃねえか」
月は目を見開き、唇を噛み締め、踵を返して駆け出した。やはり、巫女様は鮎じゃない。鮎なら、月の気持ちを分かってくれるはずだった。
雨巫女は滑るように月を追い、数歩で難なく追いつくと、月を背中から抱き締めた。抱かれて、月は、言葉では表せぬ違和感を感じた。じわりと冷たいのだ。改めて確信する。巫女は鮎じゃない。人ですらないのならば……。
雨巫女は月を、強引に振り向かせた。月は、物の怪を見る目つきで巫女を見ていた。ゆっくりと、巫女は両手を解いた。
月は数歩後退り、巫女に背を向けて駆け去った。雨巫女は、今度はまるで追おうとしない。