三、風の御子

 
 
 梅雨の時期に入っても、なかなか雨が降らない。ここ数年、あまり雨に恵まれない村だが、今年はひどい。
 
 月と鮎の家に、沢山の村人が入れ替わり訪ねてくる。いつも客の多い家だが、今年の夏はいつにもまして多い。
 
 朝、母が、鮎を呼んで頼む。
「雨乞いしてきとくれ」
 いつも通り、鮎が月を連れて行こうとすると、母は月を引き止めた。
「お月、お前えは行くな。雨乞いは祈りじゃ、祈りは独りでするもんじゃぁ」
「でも、母様、うちはいつも鮎の雨乞いに、」
「お月も鮎も、もう十になるんじゃ。鮎さん、よい加減まともになっておくんなせえ」
 鮎は、つまらなそうに外に出ていった。月は思う。このところ、母は、鮎に対して、時に丁寧な言葉を選んで使う。
 
*****
 
 鮎は、山に入り、祠へ続く路を辿る。祠は山の高いところにあるが、更に祠を過ぎて上を目指すと、そこがこの村で一等空に近い所だった。
 鬱蒼と巨木の繁るその場所で、鮎はしばらくじっと立ち尽くして考え込んでいたが、そのうち両手を掲げて、風に呼びかけた。
 大樹の森を清い風が吹き渡る。鮎は、かけていた肩巾(ひれ)を外すと、空に広げて風を含ませ、山を駆けくだった。鮎の身体が浮いては地に着き、地に着いては浮いた。
 森に、まだ幼さの残る鮎の笑い声が木霊する。
 
*****
 
 夏場の朝昼は、風通しのために、戸や襖をどこも開け放ってある月の屋敷を、一吹き風が通り抜ける。
(鮎じゃ、)
 月は夏蝉の手を引き、風に誘われて門前に出て行く。
 
 屋敷の客間に、昼前から客がいる。黒屋敷の婆様――黒屋敷の女主だ。父母がもてなしている。
 爽やかな風を頬に受けて、母は溜め息をついた。
「鮎弥児(あゆみこ)には困ったものじゃ。いつも風と戯れてばっかり」
 老婆は苦い顔をする。
「弥児母(みこのはは)や、これ以上はうちらも待てん。村が枯れていっとる」
「じゃが、鮎弥児自身から心動かさんことには。うちらで無理には動かせん」父が言う。
「それでも、どうにかなってくれんと。待ってもう十年になる」
 婆(ばば)は、老いた目の奥に、焦燥の色を滲ませた。
 
*****
 
 その晩、鮎は、雨乞いをさぼったことを怒られて、家に入れてもらえなかった。灯火の消えた暗い門前にうずくまる鮎。月は、放っておけ、という父母に逆い、鮎に付き合った。
 
 月は静かに鮎に問う。
「どうして雨を呼ばんのじゃ」
「……風と違う」
「風より難しいのか、」
「難しいのとは、違うけど」
「風の方が好きか」
「そうじゃ、そうじゃ」鮎が嬉しそうに笑む。
 月は、唇を尖らして諭した。
「でも、我慢しにゃあ。父様も母様も、黒婆様も、みぃんな困っとる」
 鮎は答えない。二人は、しばらく黙ったまま、揃って空に浮かぶ三日月を見つめた。焼いたような赤茶の三日月だった。
 ふいに鮎が口を開いた。
「雨を呼べば、もう風はうちの言うことは聞かん」
「風と仲良く、なくなるのか、」
「うん」
「ふうん」
 月は、少しだけ、嬉しいと思ってしまった。いつからか、風を扱う鮎を、誇らしいより、寂しい気持ちで思っていた。着いていくことを許されない今年よりも、ずっと前から。
 鮎は、ちょっと月の表情に驚いた後(のち)、恨みがましい目をして言う。
「嬉しいか。どうしてじゃ」
「だって……。そもそも、風と仲良くなくなるんが一体なんじゃ、かまうことないじゃろう、このお月がいるんに」
 悔しそうに言い切った月を、鮎が無表情に見つめる。
「風の代わりに、なってくれるのか、月が、」
 月はますます拗ねた。
「うちは風の代わりじゃあない。……月と風、鮎は初めっから、月の方が大切じゃ」
 聞いて、鮎は、それはそれは楽しげに、けらけらと笑った。そうじゃった、そうじゃったなあ。