九、花祭
家族が出払った家で床につき、寝込んでいた夏蝉は、頭上の簾越し、笛や太鼓の祭り囃子が風に乗って漂ってくるのを耳にしました。
床を出て起き上がり、簾を退けて、つま先立ちで外を覗いてみますと、遠く畦道を、突き抜ける秋の蒼天(あおぞら)に照らされて、華やかな祭礼の列がゆくのが見えました。灯(ひ)や月の絵を染めた幟や吹き流しを先導に、灯を抜いたお飾りの提燈、大きな薬玉がそれへ続きます。
たまらず、夏蝉は家を飛び出して、その列を目指して駆けました。想いが強い分、難なく足が動いて、遠く遠くと思っていた畦道にあっという間にたどり着くと、物見の大人たちの足の間をぬって、一等先頭に出て列を眺めます。丁度そこに、金色の錺(かざ)りをほどこしたお御輿が通りがかり、夏蝉は、あっと息をのみました。一等前で見るお御輿は、大きくて美しくて、夏蝉の胸に大層強く迫りました。
夏蝉は、お御輿の御簾の向こうにいらっしゃるのが、誰なのか知りません。きっと、やんごとないお姫様なのでしょう。一目見てみたいと思っても、下ろされた御簾はちらりとも動きません。
仕方なし、夏蝉は、頭の中で御簾の向こうを覗いてみます。やはり中には、お御輿の美しさに劣らない可憐なお姫様が、しずしずとお座りになっていらっしゃるようなのでした。しかし顔はよく見ることができません。お姫様はじっと俯いたまま、そのご様子は何故か寂しげに見えました。夏蝉は不思議に思いました。こんなに華やかなお祭りの列のお御輿の中にいて、さみしいことがあるだろうか。
そのとき何かがきらきらと光りました。その光は、お姫様の手元からこぼれています。ああ、なんだ、と夏蝉は思いました。やはり、お姫様は、寂しいわけではなかったのです。俯いたままなのは、ご自分の手元の、そのきらきらした何かを、熱心に見つめていらっしゃるからなのでした。
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この間、黒屋敷の婆様の話に聞いた薬狩りとは、きっとこんな花摘みと比べ物にならないくらいに派手やかなのかしら、と夏蝉は、都の流行り行事であるというそれに想いを馳せました。薬狩りを思い描く間、自然と、花を摘む手は鈍くなります。しゃがみながら浮かせていた尻は、のろのろと蒼草の上へ下ろしました。
そこへ、ようやくはっきりとした朝陽が射し込んで、草地をほんのりと明るく照らしました。木洩れ陽の作る細かい網目模様に柔らかく包まれた春の花々は、より彩り清々しく息づきました。大人も子供も皆、一層花摘みに精が出て、足取り軽やかに山中を歩き回ります。
夏蝉だけが、ひとり座り込んだまま、手元に群れ咲く黄色い小花を、手折っては眺め、手折っては眺め、ぼんやりしておりますと、そこに、二つほど歳上の男の子がやってきて、夏蝉に声をかけました。
「なんじゃ、都草なんかつまらんじゃろう。黄色いのが良いんなら、あっこに山吹が咲いとるよ。夏蝉でも届くし、届かんとこに咲いとるんは、うちがお前えさん抱えて取らしちゃる」
夏蝉は顔を上げて、その男の子に問いました。
「この花、都草って言うんじゃな。どうして。都にいっぱい咲いとるからか」
「さあ。そりゃあ知らんなあ」
夏蝉がその子に連れられて、山吹の花を摘んでいますと、更に幾つか歳の離れた男の子らが駆けてきて、夏蝉らを蛙(かはず)捕りに誘いました。山吹の在りかや都草の名を教えてくれた子も、無論花摘みより蛙捕りが好きでしたので、誘いに返事するより早く、夏蝉の手を引いたまま、男の子らと一緒に川に向かって駆け出していました。手を引かれるに任せて彼らを追い駆けながら、夏蝉は心の内では、あまり乗り気になれずにいました。花摘みを抜け出そうとしている自分らに気がついて、誰か大人が叱りに来てくれないかしら、と夏蝉は駆けながら幾度か後を振り返りましたが、大人らは今、桜の巨木の枝を刈るのに大わらわで、木を刈るには頼りない背丈の児供など、まるで気にかけていない様子。
思えば、憧れの薬狩りだって、薬草摘みは女の仕事、男は専ら猟なのだ……。夏蝉は、自分が鹿の若角を獲る様を想像して、げんなりとしました。それに比べれば、大丈夫、蛙くらい、なんてことはない……。
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昼、花摘みに出ていた村人らは、一度祠を訪ねて、摘んだ中でも良い花を選りすぐってお供えすると、残りを抱えて山を下りました。村の広場に着くと、他の村人らが、木で組んだお御堂と共に出迎えてくれます。祭のたびにこしらえるそのお御堂は、横にはそれなりに広いですが、その丈はと言えば夏蝉の背より、少し高いだけのお御堂です。お御堂の中には、甘茶で満ちた桶が敷かれて、その桶の中央に、木彫りの神様がひっそりと立っていらっしゃいます。
摘んだ花々を花片に解して、それを竹網に取り分けます。それぞれが竹網を抱え、唄に合わせて、ゆっくりとお御堂の周りを歩みながら、お御堂の屋根へ花片を撒いてゆきます。夏蝉は、隣の母様が抱える竹網の花片を、母様と一緒に撒きました。
お御堂の屋根は、みるみる花盛り、母様は喜んで夏蝉に声を掛けました。
「今年の花御堂は殊更見事じゃなあ」
夏蝉は、小さく頷くだけで、返事をしませんでした。母様は、夏蝉が神妙に花撒きに取り組んでいるのだと、微笑ましく思いました。
夏蝉の目には未だ、赤い血に塗れた蛙の像が張り付いて離れないのでした。宙を舞う赤い花片が、血飛沫に見えて仕方ありません。
花撒きを終えると、皆は一人一人、お御堂に入り、神様に手を合わせてから、柄杓で桶の甘茶を掬って飲みます。この花祭りという行事は、これでお終いでした。
夏蝉の番がきます。一人お御堂に入り、木彫りの神様をそっと覗きました。和やかに微笑んでおられます。遠慮がちに、甘茶を一雫掬って舐めました。甘茶とは名ばかりの苦くて不味い茶のはずが、今年は何故か、嫌じゃありません。もう一度、一口分を掬って飲んでみました。その風味が、ざわついていた夏蝉の心を、ひとときシンとさせました。