八、秋口
一滴、二滴、冷えた雫を、瞼で頬で受け止めて、月は、思わず下を向いた。下を向けば、自らの膝頭に引き伸ばされた、夕暮れ色の蜻蛉の模様が目に入った。やけに細かく描かれていて、可愛らしいというのと少し違う。母の染め描いたものだとすぐ分かる。月は、母の染めた着物を着て、背の低い木の根元に蹲っていた。木の外は、鈍く銀色に輝く空の下(もと)、細雨(ほそあめ)が降りしきる。月は雨宿りをしているのだった。
再び月は頭上を見上げた。木の葉はよく茂り、葉の隙間から空を透かし見ることはできない。時折、葉の縁を辿って辿って、雫が落ちた。熱心に葉の脈を目でなぞる月の顔にもまた、はたりはたりと落ちてくる。もう慣れて、月は雫を顔で受けたまま、葉の森を見上げ続ける。
月は、心の中ではもう何度も、木の下から雨の中へ駆け出していた。細雨の軽い肌触りはきっと心地いいはずだ。
それでも本当には、月は動かないで蹲ったままだった。人を待っているのだろうか。
人を待っているならば、雨の向こうに少しも目を凝らさず、上ばかり見ているのは妙だった。
待ち人らしきも、いつまでも現れない。
*****
早朝。目を覚ます月。
北向きの障子窓から、淡く差し込む日の出前の紅い光が、やけに広い床の間の板を這う。光とともに、ほんのり冷気も漂った。このところ、朝晩は特に、秋の気配が色濃い。
月は左に顔を向ける。何かが鼻筋と頬を転がり落ちた。顔に触れてみる。冷たく濡れている。眠りながら泣いたらしい。泣くような夢だったか。夢を思い返そうとして、何も思い出せなかった。
月は首を振って、起き上がって寝間着を脱いだ。ふとおかしく感じて胸を見下ろす。そこに小玉が煌めいていた。蒼色の勾玉。日の出前の淡い光すら、余さず吸い込み、それを玉の隅々にまで溜め込んでいる。
玉には白い紐が通してあって、それが月の首にかかっていた。咄嗟に月は、紐を両手で掴んで、勾玉を首から外そうとした。
しかし外せずに、月は勾玉を見つめ続けた。これを初めて見たときと同じに、その美しさから目が離せなかった。夜空を星ごと閉じ込めたようなこの深い蒼色を、誰が愛せずにいられようか。
結局首飾りは外せぬまま、月は、側に畳まれて置いてあった、作りたての着物に袖を通した。大きな蝶が、彼方此方に何匹も縫い込まれている。どの蝶も、胴は三つに分かれ、そこから生えた六本の足は、本物の曲がる箇所で、きっちり曲がっている。角も羽も、今にも動きそうに揺らいでいた。
都へ旅立つ日に相応しい晴れ着であった。