六、祭り前

 
 
 この秋は、灯村で、間違いなく過去一番めでたい秋となる。これから先も、これほどの好事が重なることはよもやあるまいと、誰もが嬉し気に笑み語り合う。
 新生の雨巫女の祠入りの儀。それに、夏中雨に恵まれて、たわわに実った稲の刈り入れ祭。
 それだけではなかった。村で一等美しい村長(むらのおさ)の娘が、都の殿様の元へ嫁ぐのだ。
 婚礼の儀は、都の城で行われるのだが、城から来る遣いが、花嫁を都へ連れていくその行列は、さぞ煌びやかで見物なことであろう。
 
 結婚は、急にまとまった話だった。
 夏の終わり頃、灯村に、遥か遠い都から殿様の家来がやってきて、殿が良い娘を探していると言う。その家来は、都でどうしても見つけられず、都で名の通った村という村も見て回ったがそれでも見つからず、延々探す旅を続けて遠出するうち、はるばるこの村に辿り着いた。
 家来の話を聞いた村長は、早速自慢の娘を家来に見せた。家来は一目で娘を気に入り、話を聞いた娘も、十の齢とは思えぬ躊躇いの無さで、二つ返事に良い答えを口にしたのだった。
 
*****
 
 夕暮れ時、月は友達と連れ立って村を歩く。
 祭までまだ日はあるというのに、村の彼方此方に、様々な色で染め上げられた幟が立ち、まだ灯されていない大小の提灯が延々並ぶ。笛や太鼓の音が、風に乗って何処からか流れてくる。気の早い女達は、既に祝い用の菓子作りを始めていて、中でも形の不出来なものを集めて、軒先に出ては、通りがかる村人に配っている。月たちも、歩く途中途中で、菓子を貰っては食べる。
 
 子供は、菓子を食べながら、何度も月を見ては溜息をつく。
「お月がいっちまうのは、いやじゃなあ」
「寂しいなあ」
「つまらなくなるなあ」
「せめて祭が終わってから行くのじゃったら良かったのに」
 そう言われて、月も寂しくなった。しかし迷いなく返す。
「お殿様が待ちきれぬと言うんじゃから、しょうがねえ」
 今年の特別な秋祭を見ることなく都へ嫁ぐのは、実は月のたっての願いだった。もちろんそのことは黙っている。
「鮎もいなくなっちまったのに…」
 一人が言うと、違う一人が窘(たしな)める。
「そんな言い草はばちが当たる。鮎はいなくなっとらん。巫女様になられたんじゃから、」
「でも、うちの父様が言っとった、鮎はいなくなったって、」
「うちの爺が、鮎はいなくなっとらんって言っとったんじゃ。うちの爺はお前えの父様よりか物知りじゃ」
「なんじゃあ、言ったな、」
 月が大声で遮る。
「うちの父様も言っとった。鮎は死んだって」
 皆、少しの間、しんとした。月が声を張ったのを聞いたのは、久々に思えた。
 
*****
 
 その後、皆と別れてからも、月は一人、家に帰る気になれず、 河原の方まで足をのばした。さすがに、今の時期はまだ河原には誰もいない。物干に空の提灯が並んで吊るされている。祭当日には、提灯に灯が入り、川も賑わう。月は、提灯の列を見上げながら、それを辿ってふらふら歩く。
(もう帰らんと)
 心配される。
 それとも、父様も母様も、気づかんじゃろうか。
 月は、さっき、友達との別れ際、山を下ってきた祷り女の輪を遠目に見た。今日は、巫女は久々に屋敷で休むということだ。父も母も、今夜はまた巫女にかかりきりに違いない。
 この頃では、祠入りの儀も間近に迫り、巫女は、もうずっと祠に篭りきりだった。巫女は、祠入りの儀を境に、村人の暮らしと縁を切る、との謂れはあるが、実際には、その儀式の随分前から、徐々に屋敷での寝泊まりを離れている。
 
 月は、帰らんと、と呟きながら、その足は上流へ上流へ向かう。
河原の幅が少しずつ狭まり、森が近づいてくる。とうに提灯の列は切れた。月の足は止まらない。
 夜の森は危ない。月の心臓は不安で跳ねていた。今宵は月明かりがあるとは言え、夜の森は、人のための世界ではない。しかしそう思う一方で、森に近づくほどに月の心は静けさを増していく。
 そうか、都へ嫁ぐより、こうして逃げれば良かったのか。
 
 憑かれたように、月は歩いた。気付けば森に入っている。入ったところが、既に祠のある所よりずっと上だった。そこからまた登る。
 頂上の、少しだけ開けた場所に辿りつく。その場所だけが、月明かりに、ぼう、と浮かび上がっていた。いつも鮎が風を呼んでいた場所だった。暗くてなんの目印も見えなかったのに、月の足は覚えていたようで、無意識に難なく辿りついてしまった。
 月はそこで立ち尽くした。逃げてきたはずなのに。逃げるのには失敗し、更にはこれ以上行く当てもない。
 ……否、行く当てなどいくらでもある。山を幾つも幾つも、何処までも越えていこうか。
 
「お月」
 その場に、月を呼ぶ声が、木霊のように響いて満ちた。
 少しの雑音も混じらない透いた音色は、およそ人の声とは思えなかった。月の背筋が冷たくなる。やはり言い聞かせられてきたとおり、夜の森は、人のための世界ではないのだ。
 直感で、振り向けば終わりと思われて、月はじっと動けなかった。一方で、奪われるなら本望じゃないかと思う。
 待たずして片腕を引かれた。ひ、と息を呑む月。半転し、よろけた月の見たものは、月明かりに輝く銀色の影。
「……雨巫女様……」