序
その男は、七つ目の晩に、ようやく目指す川に突き当たった。目の前を堂々横切るその川は、たいそう川幅が広いようで、いくら目を凝らしても此岸から彼岸は見えない。
(さて、どうして渡ったものか)
男が途方に暮れていると、おうい、おううい、と声がする。声の方を見ると、いつの間にやら、そこに渡し舟が泊まっていた。
男は、懐から札(ふだ)を取り出して漕ぎ手に渡し、舟に乗り込んだ。舟は簡素で、漕ぎ手は枝のような手足をした貧相な男の子(おのこ)だったが、他に舟が見当たらないので仕方がない。それに、幸い川の水は穏やかである。
しかし男の見当は見事外れた。漕ぎ出した始めこそ、水は穏やかで甲斐の雫も清らかだったが、あれよという間に雫は濁り、水は増え、川は荒れ始めた。漕ぎ手の細い腕では、この荒波を乗り越えるのは無茶である。最早甲斐を手放さないでいるのが精一杯だ。
かくして男を乗せた渡し舟は、呆気ない話、彼岸をちらとも見ることなく、大荒れの川に呑まれてしまった。
*****
やんやの声で目覚めた男は、ぼんやりと辺りを見回した。人に取り囲まれ、覗き込まれている。頭を起こそうとして、止められた。
「駄目じゃ、寝てなくちゃあ」
「お前え(おめえ)さん、どっからきた、」
「どっか痛いとこはねえか、」
一斉に話しかけてくる。戸惑っていると、隣で代わりに答えてくれる者があった。
「担ぐもん持って来てくれえ。痛いところだらけじゃあ」
あの貧相な漕ぎ手だった。隣で横たわり、うんうん唸っている。何人かが、担ぎ板を取りにばたばたと走り去っていった。
「舟坊主(ふなぼうず)、まあた波に呑まれたな。災難、災難」
覗き込む一人に言われると、漕ぎ手はむくれて、客だったはずの男の方を向いてぼやいた。
「お前えのせいじゃ。善さそうな顔で下らん悪さばかりしてきたから、川があんなえれえ荒れ方あする。乗り賃の札は返(けえ)さねえぞ」
男は戸惑った。まさか、川が荒れたのを自分のせいにされるとは思わなかった。しかし、言い当てられた本性に自覚はあるので、とっさに言い返せもしなかった。
「…ここは、」
男が問うと、人だかりが口々に答える。
「ヒノムラじゃ」
「ヒノオオキミのムラじゃ」
「オオキミ様のお膝元じゃあ」
男が改めて見回してみれば、そこは川べりで、横を清らかな川が静かに流れる。
男は漕ぎ手の男の子に問うた。
「俺たちは彼岸にたどり着いたのか」
少年は鼻を鳴らして男を莫迦にした。
「たどり着けんかったからここにいるんじゃろうが」
*****
時たまに、こうして縁(ゆかり)の知れぬ旅人が流れ着く、灯大王(ひのおおきみ)のお膝元、灯村(ひのむら)。
これは、ここ灯村が舞台の物語。