2ある雨の日の朝

 
シャッ、とカーテンの開く音がして、柔らかい光が、閉じたエマのまぶたを包む。
この柔らかい光は。
(今日、雨だ)
嬉しくなって、エマはそっと目を開いた。
アリアがエマを覗き込んで、早口で告げる。
「朝食を準備できなかったの。寝坊しちゃって…自分で作ってちょうだい。彼の分もお願い」
アリアが、二階の研究室を指差す。(壁もなく、中の様子が丸見えのそのスペースを、研究“室”と読んで正しいものかわからないけど、この家では、そう呼ぶ)
エマが起き上がってそちらに目を向けると、天文学者が書物机に突っ伏して眠っているのが見えた。
「わかった。アリアが寝坊、めずらしいね」
「ほんと、こんな日に限って…」
バタバタと慌ただしく出て行こうとするアリアの後ろ姿に、ふとエマが声をかける。
「今日は何があるの?」
アリアは、出ていきながら何か答えたようだったが、勢い良く閉められた玄関のドアの音に遮られて、エマにはよく聞こえなかった。
ドアの音は広い家じゅうに響いた。エマがちらりと天文学者の方を伺うと、やはり目を覚ましたようで、もそもそと起き上がっている。

エマは、ホールの端の小さなドアを抜ける。キッチンに通じるドア。

キッチンはこじんまりとしている。
自分と天文学者、二人分の簡単な朝食をこしらえながら、エマは、よく聞こえなかったアリアの答えのことを考える。謁見、とだけ、聞き取れたような気がしたのだ。
(謁見…誰に、だろう)

エマは、アリアの職業など、プライベートをほとんど知らない。
聞く必要もなかったし、居候の身分であれこれ聞くのもはばかられて、聞いたことがなかった。アリアも、自分の経歴などを、エマに喋ったことがなかった。
アリアは、聞かれもしないのに自分のことをしゃべるタイプじゃないだけで、別に特にエマに隠しているわけではない。

出ていきがてら答えを叫んでいたあの調子だと、聞かれたくないわけでもなさそうだ、とエマは考える。
(帰ってきたら、なんの仕事をしてるのか聞いてみよう)
 
エマは、天文学者の分の朝食をトレイに乗せて、研究室への階段を上がった。
エマがこの階段を使ったのはこの日が初めてだ。二階部分の回廊を歩いたことはあったけど、ホールには、研究室に向かう階段とは別に、もう一本階段があるので、二階部分に行きたいときは、そちらの階段を使用していた。勿論、研究室に足を踏み入れたのも、この日が初めて。

研究室には、彼の寝室や風呂などが隣接されているらしい。その、寝室や風呂に通じるドアにも、沢山の図面や計算式のメモが大量に貼り付けられていて、一見ドアとはわからない。

エマが朝食を作っている間に、軽くお湯を浴びたらしい。エマが上がっていくと、風呂から戻った天文学者が、いくぶんすっきりした顔をして、書き物机に座っていた。

天文学者の彼は、D、と呼ぶ。

Dは、朝食を受け取ると、エマに礼を言い、机の上の資料を雑に脇に寄せ、できたスペースにトレイを置いて、さっさと食べる。
エマは、初めてDを間近で見た。意外と若いのだという感想を持つ。

脇に寄せられた図面を見て、エマは驚く。それは、船の図面だった。
エマが問う。
「船?」
「うん」
古い時代の型の、巨船。その設計図。図面を見る限り、木造だろう。
エマ「星を研究しているとばかり思ってた」
D「そうだよ、星を研究するのが僕の仕事。でも今は、丁度時期だから」
エマは感心した風に、「天文学者は、時期によって船を設計することもあるのね」
D「確かに、そうやって言葉にすると不思議な気がするかもしれないけど。でも、案外、1ジャンルのことしかしなくていい職業って、そうそうないよ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
初めて研究室に足を踏み入れ、初めてDを間近で見て、初めて彼と会話らしい会話をしたエマ。
 
 
 
ここへ住んでしばらく。やっと彼を、少しは人として認識できたエマ。
それまでは、見上げればいつでももぞもぞと研究室を動き回っている彼は、エマにとってインテリアと大差なかった。
エマは、インテリアの彼も、全く嫌いじゃなかったが。
 
エマは、キッチンに戻って、立ちながら自分の分の朝食を済ました。
ホールに戻り、適当な本棚から適当に本を一冊手にとり、自分の定位置、出窓に座り込む。
本を立て膝したその上に開きながら、彼女は研究室を見上げる。先ほどのDの言葉を思う。
(『案外、1ジャンルのことしかしなくていい職業なんてそうそうない』…その通りだ。それでも間違いなく、天文学者が船の設計図を書いてるなんておかしい)
 
考えながらDを見つめるエマ。
Dは相変わらず、いっこうにエマの存在に気を止めずに、研究に勤しんでいた。
天体望遠鏡を覗き込んでは、書き物机に向かい何か書いている。
(船の設計図を書いている…天体望遠鏡をのぞきながら?)
それとも、今書いているのは本業の星に関することなんだろうか。
それとも、天体を観察することが、船の設計に、なにか役立つだろうか。
 
(あの天体望遠鏡、のぞいたら見えるのは、本当に空なんだろうか)
のぞいて見えるのは、海なのでは。
海が見えたところで、それがどう船の設計に役立つかエマにはピンとこなかったが、それでも、空よりは海の方が船に近いから。
あの望遠鏡の先に海が見えるなら。
ここは、海の、その下?
 
エマは、頭を振って、出窓の外に目線を移した。
(海の下で、雨がふるわけない)