第三章

 

〜1〜

ホーウ、ホーウ、と何か生き物の鳴き声のようにも聴こえていた音は、収斂されて正体を現した。トウコォ、トウコォ。近づいてくるのは抑えた呼び声だ。

戸惑いつつ、おずおずともう一度顔を上げてみる少女。辺りを見回す。薄暗い中に、大小の家具やら服やら、雑然と満ちている。歯車は一つも見当たらなかった。

近づく影もいつしか像を結んだ。スカート姿。そのフォーム、プリーツの細かさは少女にとって、よく見知ったもの。少女の通う高等学校の制服だった。それに、そのきびきびとした翻り方。

「メグ、メグ、」少女は弾かれたように立ち上がって、そのセーラー服姿の女生徒に走り寄り、抱きついた。

「トウコ、ちょっと、どうしたの」抱きついてきた少女の肩を抱えて、遠慮がちに押しやると、女生徒は少女の顔を覗き込んだ。

少女は、女生徒の顔を見て閉口した。メグじゃない…。

困惑して固まる少女の手を引いて、女生徒は来た道を引き返す。彼女は焦っているようだった。

「こんな奥で何してたの。もうトウコの出番なんだよ。どういうつもり」

トウコは言葉を返さない。ずるずると、彼女に手を引かれるに任せている。

手を引きながら、彼女はため息をついた。「文句があるなら、後でいくらでも聞くわ。でもこんな形で劇を台無しにするのは、なんの解決にも繋がらないし、なにより、」陶子らしくない。彼女はちらりと振り向いて、陶子の表情を伺った。

陶子は、眉根を寄せてふてくされていた。「文句だらけよ。だけど美樹にいくら聞いてもらったってしょうがないじゃない」

美樹は、はいはい、とあやすように頷いてみせた。「反省会の時に、陶子の言い分をみんなに聞いてもらおう。私、全面的に陶子の側に立つから、」

今度は陶子がため息をつく。「…私、美樹のそういうところ好きよ」

「なによ、」美樹は立ち止まって振り向いた。

陶子「公明正大、ご立派だって褒めてるの。反省会の時、みんなの前で。名案ね。私のドレスを切り刻んだ心清らかな犯人は、直ぐさま自ら名乗り出るでしょうね」

(切り刻んだって…。背中に、小さな切れ込みが二箇所あっただけじゃないか…)美樹はそう思ったが、口にはしなかった。ここでこれ以上陶子の機嫌を損ねるわけにはいかない。

二人は、いつの間にか舞台袖に辿り着いていた。二枚の袖幕の間から、舞台上を覗く。全面スポットライトに照らされた舞台は、白い反射光と板敷きの薄茶が混ざり合って、黄色っぽく浮かび上がっている。その中に、簡易ベッド、椅子、小卓、その他小道具、そして役者が三人。西欧の、古い時代の型の警官服を着ているのが二人、パイプを片手にタキシードを着ているのが一人。皆男装だった。作った低い声でもテンポ良く、軽快な言い合いが続いている。そろそろお開きにしてくださいませんかね、ラウンジに待たせている人がいてね。や、そういうわけには。何故そう逃げよう逃げようとするんです。はあ、無益だからですよ、叩いたって埃の出ない私に、なんだってそういくつも質問をぶつけるんですかな……

陶子は一瞬だけ、少し身を乗り出して客席を覗いてみた。舞台袖からでは一部しか見えないが、一列目の一番端の席も埋まっているのを見ると、ほぼ満席のようだった。一高等学校内の講堂とは思えないほど広い客席だった。学生服姿と私服姿が入り混じる。今日は文化祭だった。

美樹が、陶子の髪型や衣装の調子を軽く整えた。陶子の頭はいわゆる夜会巻き、衣装は裾を膨らめた、古風なイブニングドレスだ。整えた終わりに、美樹は陶子の両肩を軽く叩いた。「頼むわよ。そもそもが、陶子のために書いたヒロイン役なんだから、」

「ちょっと美樹、」陶子は思わず慌てて舞台裏を見回したが誰もいない。先から、こちらの下手側には誰の気配もない。丁度今は、部員は皆、上手側に控えているようだ。それでも、この講堂の舞台裏は、異様に広く、また複雑に入り組んでいるうえに、衣装や大道具小道具で溢れかえっている。隈なく確かめたならいざ知らず、そうでないならば、誰もいないと判断するのは、陶子には出来かねた。

陶子のために書いたヒロイン役と美樹は言うが、あくまで今回の劇は群像劇であって、主役はいないことになっている。それに、まずもって、特定の部員のために役を書くのは、暗黙のタブーだった。全役オーディションの決まりが成り立たなくなってしまう。

舞台ではシーンが終わろうとしていた。

……いやいや、別にあなたを犯人と疑ってるんじゃない、ただ、役立つ証言をいただけるんじゃないかと思いまして。ふん、隣室に泊まる作家の方がよっぽど怪しげだというのに、なんであちらを調査しないのかな。彼は作家ではなく詩人だそうでして。勿論事件後真っ先に彼をたずねましたよ、当たり前でしょう。なんとも結構、それでは私はこれにて失礼。ああ、ちょっと待ってください。待ってください?君達も私の部屋から出て行きたまえ!鍵を締めるんだから。

紳士が警官二人を追い立てて、三人揃って上手側に捌けた。暗転。直ぐさま上手側から道具係が出てきて、舞台上のセットを少しだけ変えて、下手側に捌けてきた。美樹と陶子の脇を、小さくなってすり抜ける、一年生達。彼らと入れ違いに、陶子は舞台に出て行く。

板付き。証明。