ロクサーヌホテル

 
私は、あまりビゼーが好きじゃない。
音楽家としては好き。そうじゃなくて、ビゼーをひとつのアクセサリーとして考えたとき、あまり好きじゃない。

単に、顔と名前が好きじゃないだけかな。でもカルメンのオペラもあまり好きじゃないし、真珠取りのアリアも、あまり好きじゃない。…そう言いながらも、ライブで聴いてると、感動して涙も溜息も出てくるんだけど。更にカルメンのオペラに関しては、生では5回くらい観たし、映像含めたらどれだけ観たか分からない。
だから、難しいけど多分、好きじゃないのは、その雰囲気の一部分かな。ビゼーという名前と、その有名な顔と、オペラの曲の雰囲気が、マッチするその部分に、重たい煙のようなものがある、あの重たいものが嫌い。

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私とユタは、ホテル内のイタリアンレストランのバーカウンターに座っている。

「じっとしてて」
言われて、私はビクリと固まった。彼は、私の顎を片手で固定すると、私の左の頬に、彫刻刀をあてた。そして、手際良く、誰かの顔を彫っていった。
まるで痛くはなかったが、頬に彫刻されるなんて思いもよらなくて、彫られながら私は不安だった。
私の左頬は、今まで知らなかったが、驚いたことに、厚い木の板だったみたいだ。彫られる感覚が、そうだと言っていたし、何より、視界の端に、パラパラ落ちる木屑が見えた。

「はい、おしまい」
ユタは、あっという間に彫り終わって、私の顎から手を離した。鏡はないので、私は作品を、左手で触って確かめた。触れば、鮮やかに作品が目の前に浮かんだ。これは、ビゼーだ。しかしそのタッチは、とてもゴッホと似ている。
「素晴らしいね」私は、心からユタに賞賛を送った。兄である彼がアーティストの魂を持っていることを、私は、そのときまでまるで知らなかったのだ。
血の繋がっている兄なのに、私は、彼について知らないことが、とても多かった。

私は、美術に造詣が深くないので、自信なげに、「この作品は、ゴッホのような…」
「うん、彼のことを尊敬してる」微かに笑いながら、彼が言った。ぼんやりとした笑顔で、はっきりとした口調で。
「そう…」私は、感動を込めて返事をした。多少、そう見えるように、意識もしながら。感動したのはまさしく事実だったが、私は、実はビゼーがあまり好きじゃなくて、しかし、とにかく、そのことは言わないでおかなきゃ。だってきっと彼は、誰かから、私が音楽を愛していることを聞いて、それで、私へのプレゼントのつもりで、このビゼーを描いたのだろうから。
私自身から、音楽のことを彼に語ったことは一度も無かった。