シエルが、パイプオルガン課に入らなくてはいけなくなったのは、アンジュのせいだった。二人の話し合い、あるいは言い合いの末、そういうことになった。そうと決まればもうアンジュは反論しない。彼女は、ボン・コンジェのケーキセット――しかもタルトタタンとカフェ・クレームのセットを、シエルに気前よくご馳走した。この組み合わせは、この店の通常のケーキセットよりいくらか高級なのだ。タルトタタンを余さず綺麗に食べ終えたシエルは、こう言った。「ご馳走さま。でも悪いんだけど、まだ気分の50パーセントはすっきりしないままだな。」もう一度、同じものをおごれということだ。アンジュは寛大に受け入れた。私のせいと決まったからには、最後まで責任を取らなくては。でも、来月もここのケーキを我慢しなくちゃならないなんて。しかもシエルの食べる姿を向かいで見ていながら。アンジュは内心鬱々とした。彼らの小遣いの範囲では、ボン・コンジェは、月一度寄るのが精一杯の喫茶店だった。
 
   ***
 
 アンジュとシエルの通う学校の講堂には、パイプオルガンがあった。劇場で例えると、二階客席の部分いっぱいに、それは鎮座している。オルガンのためだけに作られた二階部分だった。オルガン前のわずかな空きスペースは、この学校のクワイアが、本番兼、練習場所としても使用していた。
 クワイアの生徒たちは、この場所の掃除を、一人ずつ持ち回りで担当した。毎週火曜日の練習の後、当番は一人で居残って掃除をする。
 当番の生徒は皆、布巾で長椅子を払い、次にオルガンの鍵盤とストップを払った後、耳を澄ませて誰も来ないことを確かめて、オルガンの裏に回り、そこに取り付けられている小さな木戸の、細い鉄輪の取手を引く。クワイアの生徒たちは、誰もそんなことを口にはしないけれど、アンジュは確信していた、開かないと知っていながら、誰もがやっている暗黙の儀式だと。でもアンジュが当番のある日、木戸の鍵はささったままそこにあった。当然、アンジュは胸を高鳴らせながら木戸を開けた。果たしてパイプオルガンの内部は、森林公園でよく見かける、大きなアスレチック遊具のようだった。板が張り巡らされていて、小さな階段もあり、複雑に入り組んでいる。電球が沢山吊るしてあって、スイッチを押すと淡く灯った。そこら中、楽譜だらけだ。これは当然とは言いがたいかもしれないけれど、アンジュはオルガンの木戸の鍵を盗んだ。
  翌朝。登校中の坂道でシエルを見つけたアンジュは、後ろから彼女に飛びついた。シエルは振り向いて、眠そうな目を瞬かせた。
「アンジュにしては、朝から元気すぎだね。どうしたの。」
「昼休み、いいところに連れて行ってあげる。」
 耳元で興奮気味に囁くアンジュに、シエルは少しの間、惚けた顔をしていたけれど、次には弾かれたように笑いだした。
「『いいところに連れて行ってあげる。』かぁ。本当に似合わないなぁ。あーあ、おかげで目が覚めた。」
「……なんの話?」
 きょとんとするアンジュに、シエルは笑うばかりで答えてくれなかった。
 その昼休み、いいところの正体を知ったシエルは、一通り探検を終えてから、体の納まり具合の良さそうな窪みを見つけて座り込むと、肩をすくめて溜め息をついた。
「呆れたなぁ。鍵を盗むなんて。昨日ここの掃除当番だった君が犯人って、誰にでも分かるよ。どうするのさ。」
 アンジュも肩をすくめてシエルを見た。シエルだって本当はこの場所を満喫しているくせに、大人ぶって。でもアンジュは、オルガンの中を覗いた瞬間のシエルの表情に満足していたので、肩をすくめるだけにとどめた。
 自首した方がいいんじゃないの、と促すシエルに、アンジュは納得しない。
「言い訳だって考えてあるもの。」
「どんな?」
「探している楽譜があるのよ。ピアノ課の棚では見つからない。楽器屋では見つけたけれど、高くてとても買えない。ここを覗いたら、この楽譜の山でしょう。オルガン譜だけじゃなくて、ピアノ譜も沢山まぎれてる。ここなら欲しいものが見つかるかもしれない。見つけて複写したら、鍵はそっと返すつもりでした……って。」
「なんの楽譜?」
「……例えば、連弾譜とか。」
「だから、なんの。」
「そうねぇ。二台ピアノじゃなくて良くて、第二ピアノが簡単な曲。」
「……なんだ、それ。」
 そんなふざけた話、言い訳にならないよ。ふい、と俯いたシエルは、手持ち無沙汰に、自分の髪をいじりはじめた。アンジュは黙ってシエルを眺めた。アンジュは、このシエルのなんてことはない癖が好きだった。シエルの髪は細く長くて、銀に近い金髪だった。いじるときには、胸元で緩やかにカールした毛先を、一房、二房、その白い指に巻き付けては解く。
 結局その日以来、二人は、無人の隙を狙ってはオルガンの中に忍び込んで遊んだ。楽譜を探す名目で。
  
 それからひと月後。オルガンの鍵に関する通達も呼び出しも一切なく、警戒心が緩んできた頃、彼女たちは、ついに現場で、パイプオルガン課唯一の講師、キーノに見つかった。キーノは、定年でこの学校の音楽教師を辞めた後、オルガニスト兼オルガン課講師として、学校に残っている。オルガンの中は、彼専用の倉庫であり、考えてみれば、二人は見つからないように気をつけていたとはいえ、今まで一度も出くわさなかったのは奇跡に近いかもしれなかった。二人は、言い訳むなしく罰を言い渡されて、アンジュはクワイアから、去年出来たばかりの合唱部へ、シエルはピアノ課からパイプオルガン課へ、それぞれ移ることになった。
 キーノは、アンジュとシエルから、転部転課願い届けの紙を確かに受け取ると、これでなかったことにしてあげよう、と微笑んだ。彼は、鍵がなくなったことを誰にも告げておらず、また約束した通り、罰のことも誰にも告げなかった。それは罰という名目の交換条件だった。アンジュは、何も知らないメンバーたちに惜しまれながらクワイアを辞めた。
 
   ***
 
 耐えてレモン水を飲み続けるアンジュの向かいで、二度目の奢りのタルトタタンを食べながら、シエルが愚痴を言う。
「キーノ先生には参るよ。先生、あそこに私たちが出入りしてるの、初めから分かってたんだ。今日のレッスンではっきりそう言われた。罰を言い渡すタイミングを図ってたってさ。見込みのある生徒が手に入るチャンスを、安々と逃すものかって。今更言うんだ。大人はずるいよ。全く、オルガンなんて流行るんだか流行らないんだか……別に、私は音楽ができればそれでいい、だからピアノでもオルガンでも、本当には構わないんだけど……、」
「じゃあ、それ、残りをくれない?」
「嫌だよ。分かってないなぁ。ピアノでもオルガンでも、本当には構わないから、きっかりタルトタタン二切れ分とカフェ・クレーム二杯ぽっちで許してあげたんじゃないか。」
「私だって、先生から罰を受けたのに。」
「だから、誘った方がより罪深いって、アンジュもそれを納得したはずだよ。」
「……。それで、私が合唱部に移動させられたことには、何の意味があったのかしら。キーノ先生と合唱部って、関わりないものね。」
「ああ、それはね、スピエル先生が、最近じゃあ毎晩、キーノ先生に相談の電話をかけてきてたんだってさ。部員が足らなくて、存続の危機だって。合唱部立ち上げは、生徒主体じゃなくて、スピエル先生たっての希望だったらしいよ。とりあえずは、君が入部したんで、来年も廃部にならずに済むようじゃないか。」
「なるほどね。これでキーノ先生は、夜ぐっすり眠れるようになったわけ。」
「そんな顔して。君の罰はむしろ褒美じゃないか。知ってるんだから。」
 アンジュは賛美歌が好きだった。入学するや、希望してクワイアに所属したけれど、実際に入ってみて、その規律と、歌に対する制限の多さに、すぐさまうんざりしたのだった。それでも一年以上も続けていたのは、エクレール――アンジュの母親――が辞めることに猛反対したからだ。この学校のクワイアは、学内外問わず活動機会が多くて、評判が良かった。娘がクワイアメンバーだと世間体が良いのだ。
 エクレールは、アンジュから、教師の持ち物を盗んだ罰としてクワイアを辞めさせられた、との告白を受けてから、ひと月以上経った今もまだ拗ねていた。少なくとも週に三度はする焼き菓子作りを、妹たちばかりに手伝わせて、アンジュにはまるで手伝わせてくれない。アンジュの家では、手伝わないと菓子は食べられない。エクレールの菓子を焼く腕は、近所でも学校でも有名で、アンジュは配達を頼まれることも多かったけれど、そういう時など、持たされた籠の中を期待して覗いても、クワイアを辞めて以降は、いつだってぴったり注文分しか入っていなかった。
 母さんの不機嫌はいつまで続くだろう。アンジュは考えた。ボン・コンジェのケーキは来月から食べられるとして、母さんのケーキを今後まだまだ食べられないのだとしたら、私の罰は、やっぱりご褒美とは言えないわ。
 あまりアンジュの溜め息が多いので、彼女のことが少しだけ不憫になったシエルは、思い直して、ケーキの最後の一口をアンジュの口に運んでやった。