Forgotten Dreams
高校最後の年の夏休みが明けてしばらくしても、声変わりの訪れの気配がない。夏衣(かい)は珍妙な存在として、ときにクラスで持て囃されもした。男子校で良かった。女子など本気で気味悪がりそうだ。
母親は心配している。元来のん気な人で、この夏までさして気に留めていない様子だったのが、夏以降は打って変わり毎日のように、遅いわねえ、と脈絡なく声を掛けてくる。
この夏休み、水泳部が、初めて父兄向けの合宿見学実施を試みた。昨年度で部を引退した夏衣だったが、見学実施日だけ、指導役として合宿に参加した。合宿と言っても、通い慣れた校舎に寝泊まりするだけだ。指導ぶりを冷やかしに、母と姉が来た。父兄は、五階建ての東棟屋上のプールを、隣接する西棟の六階ベランダから見下ろす形で見学した。休憩時間、プールサイドで部員皆で談笑していた際、低く掠れて響きの悪い部員達の声を突き抜けて、夏衣の声ばかり、目立ってベランダまで届いてきたらしく、それ以降、母は煩い。姉にとってはあくまで他人事のようで、面白がるクラスメートら同様、良く鳴る耳心地良い声だと褒めすらした。
「歌手になろうかな。」
丸ごとの冗談でもなかった。歌が好きだ。高校一年次、二年次とクラスメートだった深見には、時折催促されて、ボーイソプラノが映えそうな楽曲をアカペラで披露したりもしていた。しかし姉は、それについては冷たく一笑に付した。
「十八まで声変わりしてないからって、もう一生しないんじゃないかなんて甘いよ。どうせもうすぐにがらがら声になるさ。」
言われて夏衣は鼻白んだ。姉の物言いには、度々辟易させられる。意地でも声変わりしたくないと、思わず一瞬考えた。
がらがら声だけど、それがまた良い感じでさ。夏衣は、いつか深見がそう言って貸してきた、和製ロックアーティストのアルバムを思い出した。結局、ろくに聴かずにすぐに返した。好みじゃなかったこともあったが、理由はそれだけじゃなかった。深見はそのアルバムを、夏衣が貸したCDのお返しとして持ってきた。夏衣が貸したのは、ルロイ・アンダーソンの管弦楽曲集だった。柔っぽい好みだな、お前らしいよ。これがアンダーソンに対する深見の感想だった。それも笑いながらそう言ったのだ。夏衣は憮然とした。男子高校生同士で貸し借りするには似合わないCDなのは、十分承知の上で、それでも貸した。深見が夏衣の歌声を褒めて、それは何の曲かと問うから、思い切って貸したのに。
* * *
一年次、深見は弓道部だった。水泳部弓道部共、昼休みは活動が無かった。それぞれの友人たちが、運動部や生徒会の活動で忙しく、互いに一人になる昼休みの間だけ、二人は次第に連むようになっていった。
夏衣が深見に、弓道部を選んだ理由を聞いたとき、深見の答えは明快だった。失敗しても、礼するだろう、きっちりしてて良いと思って。夏衣は返答につまった。深見は笑った。俺らしくないだろ。そう言われて夏衣は、確かにその時、彼らしくない言葉が意外で返答につまったのだったのに、見抜かれたことがどうしてだか悔しくて、深見らしさなど知ったことか、と思わず毒吐いた。自分らしい、自分らしくないって、自慢気に話す奴、俺、好きじゃない。
* * *
ところが、二年に上がってすぐ、深見は弓道部を辞めた。夏衣が、礼はどうしたのだ、とからかうと、深見は顔を強張らせた。嫌味な奴、俺はそういう言い方、大嫌いだ。
深見の好みの言い方など、別にどうでもよかった。去ろうと踵を返すと、深見は夏衣の腕を掴んですぐに謝った。絵がやりたくなったんだよ……悪かった、むしゃくしゃしててさ。
その前の晩、交際している彼女と電話で言い合ったらしい。彼女のことは初耳だった。小学校卒業時、同級生から告白されて、その後、中学高校と別れたが、今でも続いているのだと言った。よく続くな、と感心すると、きっとお互いに誠意があればいつまでも、と深見は静かに言った。彼は、いつもクラスの中心で馬鹿騒ぎしている、いわゆるお調子者だった。それでも、このようなふとした時の彼の発言や表情を、その時には夏衣は既に意外だと思わなくなっていた。
しかし、絵をやりたくなったというのはやはり嘘のようだった。クラスで、いつもそばにいる友人から、幽霊部員と茶化されているのを目にしたことがあった。深見は、開きすぎの胸元を掻きながら、怠くて、と笑って返していた。その二年次の夏休み、夏衣は部の合宿で晩も学校に居た。寝泊まりする教室に向かう途中、美術室の前を通る。毎晩明かりが点いていて、ドアの嵌め込みガラスから覗くと、美術部員たちが、秋の学校祭の展示に向けて各々作品に取り組んでいるのが見えた。結局、一晩すら深見の姿を見つけられずに、合宿は過ぎた。夏休みが明けた初日、深見の席は空だった。教師が、彼の入院を知らせた。教室がざわめいた。教師は、彼の言葉をそのまま伝えた。しばらく居ないが、大事じゃないので心配しないでほしい。その時夏衣は、夏休み前、よく深見が体育の授業をサボっていたことを思い出した。胸が痛い、と大袈裟に嘆いては、周囲を笑わせてもいた。夏衣は心の中で、呆れた奴、と呟きながら、離れた場所からそんな彼を見ていた。
夏休み明けからひと月経っても、深見は登校してこなかった。ある日突然、深見と連んでいるグループのクラスメートたちが、一緒に見舞いに行かないか、と夏衣を誘った。いつもふざけてばかりの彼らが、神妙な面持ちでいる。戸惑う余裕もなく、夏衣はその日、水泳部の顧問に部活動欠席の旨を伝えて、彼らについていった。着いた病院は、建て替えられたばかりの大学病院で、真新しい建物には、まだあまり薬品臭が染み付いていなかった。
深見は個室に居た。ベッドで上半身を起こした彼のそばには、彼のその半身くらいの大きさの、カプセルの形をした銀色の塊があって、その塊から出た管線は、深見の鼻腔へ繋がれていた。深見は、友人たちを見て破顔したが、夏衣の姿を見つけた途端、戸惑ったように笑みを小さくした。夏衣は咄嗟に、俺、帰るよ、と言って病室を出ようとしたが、クラスメートの一人、美山が、それを引き止めて深見に言った。
「深見。海原(うみはら)が来たいって言ったんだ。俺たち、無理に連れてきたわけじゃないぜ。」
それから美山は、夏衣に向かって肩をすくめてみせた。深見さ、海原は薄情な奴で、来ても、ずっとつまらない顔してるだけだろうから、連れてくるなって言ったんだ。夏衣が、もう二度と来ない、と怒ってみせると、深見は、悪かった悪かった、と慌ててみせた。以後、夏衣は続けて彼を見舞った。学校の水泳部は、寒さが厳しくなるにつれ、他の運動部と比べて、活動が緩やかになる。深見の友人は、そろって運動部に所属していたので、そのうち、夏衣一人で見舞うことも多くなった。夏衣は、連日見舞っても、一度も深見の彼女と鉢合わせないことが不思議だった。
「お前、こんなしょっちゅう来てて、部活は?」
「水泳部、冬場は活動時間短いから。」
「……うちの学校屋外プールなのに、全然日に焼けてないのな。」
「黒くはならないな。直ぐに戻るし。」
「お前、夏場日焼け止め塗ってるだろ。」
「……悪いかよ。」
夏衣は肌が弱かった。小学生の時に、身体中の日焼け跡が真っ赤に腫れ上がって、高熱を出したことがあった。
深見は、静かに首を横に振って返した。
「いや、白くて、綺麗だ。」
夏衣は見舞客用の椅子から立ち上がり、深見の近くに寄った。深見は、ぼう、と夏衣を見つめてから、顔を逸らした。
「そんなに近くでまじまじ見るな。管のくっついた顔だ、恥ずかしいだろ。」
夏衣は、深見の顔に手を当てて、無理矢理自分の方に向き直らせた。
「管がくっついてようと、自分が人よりもずっと顔が整ってること、自覚してるくせに。」
深見は呆気に取られて、それから大笑いした。
「嫌味な奴。俺、そういう言い方、本当に嫌いだ。」
夏衣は嬉しくなった。最近見た中では、一番の笑顔だった。
「ねえ、あのさ、来てるの、彼女。」
「……別れたから。だから入院のことも言ってない。甲斐甲斐しく世話を焼かれたら面倒だし、他に好きな奴が出来たことにして、別れた。」
「……相手、納得してないだろ。深見の家に押し掛けたり、するんじゃないの。」
「そういうこと、できる奴じゃないんだ。」「泣いてたろ。」
「さあ、電話だったし。」
夏衣は、それ以上はもう何も言えなかった。深見は、そういうことが一番嫌いなはずだ。
* * *
夏にたった一日泳いだきり、後は塾通いに明け暮れている今年度は、日焼け止めを塗る機会はなかった。塾からの帰り、歩きながら、自分の手の甲を見つめてみる。昨年より更に白く思える肌が、夜の闇に浮き上がる。
家に着くと、姉が、居間でテレビを見ながらスクラップブックを作っていた。コメディー調のドラマに、時折笑い声をあげながら、スクラップした思い出の写真を、様々な種類の花のシールでデコレートしている。木蓮、あやめ、蘭、石楠花、水仙、撫子、マリーゴールド。他にも、夏衣には名の分からない花が沢山。横から覗き込んで眺めていると、匂いに飲まれそうになる。
梅が咲く頃に深見は退院し、以後自宅療養となった。そして、桜を見ずにこの世を去った。彼の自室を見舞ったとき、夏衣は感動で打ち震えた。室内は、余さず水彩画で満ちていた。額に入れて飾ってあるものも、雑然と放って置いてあるものも、全て、花の絵だった。
「絵がやりたかったのは、本当なんだ。絵も、弓道も、本気だった。」
彼の自室は、内庭と隣り合っていて、ガラス戸を通して、庭の様子が見通せた。もう少し暖かくなれば、花が咲き乱れるのだと言う。しかし、今だって既に、この場で花は咲き乱れている。これ以上のものはない。夏衣は、思わず一番気に入りの曲を口ずさみそうになった。しかし、その曲集をかした時、柔っぽいと言われたのを思い出して、口ずさむのを止めた。一瞬、意地悪い気持ちになった。
「彼女に、本当のこと言えよ。」意地悪い気持ちは、すぐに消えて、次には正義感が溢れた。「言うべきだ、やっぱり。」
深見は、正面から夏衣を見つめた。
「だから、誠意が無くなったら別れるのが、俺の主義なんだ。誠意が尽くせなくなった。好きじゃなくなったから。」
「好きじゃ、なくなった……。」
「ああ。」
「どうして。」
「少しは考えたら。お前は、聞くばっかりだ。」
「……そういう嫌味な言い方って、」
「お前の言い方だ。」
* * *
中学生の頃、弁当に彩りが欲しいと母に伝えてから、以後、赤と黄のパプリカのサラダがよく入るようになった。姉はパプリカがあまり好きではないらしく、パプリカサラダ出現の原因である夏衣に文句を言った。
「でも、見た目が良くなったじゃないか。」
「見た目なんか。それに、茶色い物ばかりの方がずっと美味しそうだ。」
夏衣はてっきり、姉は彩りについて、親に言い出しづらくて黙っているのだと思っていた。違ったらしい。
そぼろ弁当の日が、しばしばある。発色の良い卵のそぼろと、明るい茶の牛そぼろ、緑の絹さやに、プチトマト。そぼろの日は、彩り十分なので、パプリカは入らない。その日には、今日は姉も満足だろう、と夏衣は思うのだ。夏衣も満足だった。母の作る中で一番の好物だった。
「あ。俺もそぼろ。」
初めて深見とまともに口をきいたのは、一年次の秋だった。昼休み、教室でいきなり深見が夏衣の弁当を覗き込んで話しかけてきた。クラスは同じでも、属する友人グループがまるで違った。夏衣は深見が苦手だった。
「交換しようぜ。」
夏衣は、食べ物、飲み物の交換を好まない。しかし深見の軽い口調に、その時思わず了解してしまった。深見のそぼろは、鶏だった。しめじと椎茸が混ぜ込んである。旨かったが、味が辛かった。深見が言った。
「お前ん家のそぼろ、甘いのな。」
お互い、すぐに食べ慣れた味が恋しくなって、二口と食べずに取り替えた弁当を元に戻した。
* * *
開けてみると、そぼろ弁当だった。大学受験も終わり、最後の高校登校日、教室で食べる最後の昼飯。夏衣は、心置きなくじっくりと味わった。既に受験の合否は出ていた。第一希望にどうにか引っかかることが出来た。
夏衣は、ちらりと美山に目を向けた。彼はいつも通り、仲間内で弁当を囲んで騒がしくしていた。明日、来るよな、絶対来いよ。昨日、帰り際に夏衣を引き止めて、美山はいつかと同じ神妙な面持ちでそう言った。そのくせ、今日はまだ一度も声をかけてこない。訝しく思うが、彼が気まぐれにそういう行動を取る類の人間であるのも確かだった。美山を気にするのは止めて、これも聴くのは人生最後になるであろう、昼休みの校内放送を適当に聞き流しながら、夏衣は夏衣で気心知れた友人たちとの雑談に興じた。
『――卒業ソング特集でお送りしています。次の歌は……、失礼しました、次は歌ではなく、管弦楽曲、匿名希望の方からのリクエストです。なお、メッセージも届いています。「一年間縛り付けるような真似して済まなかった。夢と思って忘れてください。」――それではお聴き下さい、ルロイ・アンダーソン作曲で、フォーゴトゥン・ドリームズ。――』
甘いピアノの旋律が流れ出す。優しく弦に支えられながら。馴染み尽くしているはずのその甘さと優しさが夏衣を殴りつけた。両手で顔を押さえ込み、それでもどうにか席を立つ。友人に気持ち悪くなったと告げて教室を出る。ついてこようと次いで立ち上がる彼らを、大丈夫だからと拒絶した。
人のいない所へ行きたかった。しかし一瞬すら曲から離れるのも嫌だった。踊り場ごと、天井にスピーカーが設けられている中央階段を登る。駆け上りたいのに、足が上手く動かない。ピアノに代わり、次いで弦が穏やかなテーマを繰り返すその途中、曲は明るく笑うような調子にも変化する。目の前が水彩の花で溢れた。匂いに飲まれる。
人気の無い最上階手前の踊り場に漸く辿り着いた時、またテーマに戻った曲が、ふと途切れた。夏衣は苦しくなって、自分の胸を右手で握りしめた。途切れた曲は、再び流れ出す。オープニングと同じ、甘いピアノの旋律で。
「……行かないで、」
曲は終わり、懇願は静かに拒まれた。深見、お前、最後の最後までなんて我が侭な奴。
深見の家にも毎日のように見舞い続ける夏衣に、深見はとうとう、もう二度と来ないでくれと告げた。夏衣が嫌だと食い下がると、彼も、最早上手く力をこめられない声で必死に叫んだ。
「これ以上憔悴していく姿をお前に見られたくない、なんで分かってくれないんだよ。」
それが最後の見舞いだった。最後の見舞いにさせられた。そして今、縛り付けたと勝手に謝り、忘れてくれと勝手に去っていく。
夏衣は嗚咽した。抑えきれず漏れた声が、彼らしくもなく不自然に掠れた。分かっている、終始我が侭だったのは、自分の方だ。それならばいっそ、最後まで我が侭を貫いて、嫌がられても、憔悴していく彼のそばで、想いを吐き出しきってしまえば良かった。 吐き出しそびれたそれは、今や膨れあがって中から夏衣を押しつぶさんとしている。苦しかった。
* * *
春、夏衣は進学と共に、変声期を迎えた。まだ通い慣れない大学へ向かう道道、舞い落ちる桜の花びらを肩で受けながら、夏衣はふと、大切に想われ過ぎたために、深見の生前は何も真実を知ることができなかった、彼の想い女(びと)を思い出した。深見の夭折を、彼女は誰から聞いたのだろう。知らせた人間は、彼女が知っておくべき全てを、きちんと彼女に伝えているだろうか。
会いに行ってみようか、と考える。